民主主義も言わずもがな、最重要の政治思想の一つと言えるだろう。
民主主義とは何か?民主主義の対義語を考えてみると分かりやすい。民主主義の対義語は専制、絶対君主制、貴族政、封建制などである。これは政治的権力が1人、若しくは少数のエリートに独占されている政治形態である。これに対して民主主義は、広く一般国民に政治的意思決定権がある仕組みと言える。
あるいはトップダウン、ボトムアップの違いと言ってもいいかもしれない。トップダウンの専制は、君主や独裁者が一方的に政治的な意思決定をして指示を下す体制だ。それに対してボトムアップの民主主義では民意の合意点を模索しながら政治的意思決定に至る仕組みと言える。
現代人の多くは民主主義を当たり前のもの、正しいもの、と考えているかもしれないが、一方では少しずつ人々が気付き始めているように、民主主義に疑問符が付きつけられている状況が広がりつつあるのも確かだ。
民主主義の章なのだから民主主義の長所を堂々と述べればいいのかもしれないが、まずは民主主義への疑問点から見ていこうかと思う。
民主主義の難点
トップダウンがうまくいくこともある。昨今では企業経営でも、決断力のあるリーダーが「選択と集中」を進めて、痛みを伴う企業構造改革を含めた意思決定を、スピーディーに下さないといけない、等と言われる。最近では中国が、コロナ対策を果敢にスピーディーに進めた、トップダウンなので産業地の開発が猛スピードで進行できる、等と言われた。軍事行動だって、トップダウンの体制が整っている国の方が、作戦をスピーディーに進めて勝ちやすいかもしれない。
一見正しそうな民主主義だが、このように、トップダウンの成功例などと併せてみるとどっちがいいのか分からなくなることもある。
有名なアリストテレスの政治分類を紐解くと・・・アリストテレスは政治的支配について、一人の支配、少数の支配、多数の支配に応じて君主制、貴族政、民主政を区別し、さらにその堕落形態として僭主政、寡頭政、衆愚制があると論じた。現代の民主主義に近いのは、この中の衆愚制のようである。アリストテレスは民主主義に否定的だったのかもしれない。
そしてこれまた有名なチャーチルの名言?で、「実際のところ、民主主義は最悪の政治形態ということができる。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが」というものがある。民主主義に不満はありつつも民主主義しか取りようがないという現代政治家の正直な心情だったのかもしれない。
私の考えでは、経済不安、国際情勢の不安が社会に広がると、独裁型のリーダーが権力を持ちやすくなると思う。後述するが、これはポピュリズムと密接に関連していて、民主主義と切り離せない問題だ。ヒトラーは徹底的な独裁体制を敷いたが、ヒトラーが台頭できた土壌はドイツ国民の極端に落ち込んだ経済状態、そして国際的な孤立だった。アメリカのトランプ大統領が選挙で躍進できたのも、中西部を中心とした労働者の経済的危機感、そして外国人労働者に仕事を奪われる不安があった等と言われる。ロシアで強権的な指導者が選ばれやすいのも、伝統的に周囲の国から敵視されてきた歴史があるからだ。日本の歴史を振り返ってみても、2.26事件の首謀者たちは天皇を頂点とした一種の全体国家を作ろうと考えていた。その極端な思想の発端は、地方経済の窮乏だった。
経済評論家の上念司さんも、経済がヤバくなるとおかしな思想が訴求力を持ちやすくなると繰り返し説いておられる。そういう社会不安がポピュリズムが台頭するための土壌になると思われる。ただ注意したいのは、「おかしな思想」と書いたが、ポピュリズム政治家が訴える公約にはそれなりの説得力のあるものも多いということである。説得力がないと政治権力を奪取できないから当たり前のことかもしれないが、一見極端な主張に見えても、よくよく見ると一部の有権者のニーズを的確につかみとっている、支持者から見れば筋の通った公約を作り上げている、ポピュリズム政治家にはそういうケースは多いのだ。
さて、ロシアや中国、アラブのリーダーなどは独裁国家の中で支配者集団の中から代わる代わる選ばれるだけだが、ポピュリズムのリーダーは民主主義の仕組みの中から生まれる。ナチスは選挙で勝ち上がった上で、党首であるヒトラーは議会で多数を取って首相になり、全権委任法を成立させた。トランプも普通に大統領選挙で勝っている。
ポピュリズムの定義は「政党や議会を迂回して、有権者に直接訴えかける政治手法」、もしくは「人民の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動」といったものである。確かにトランプはこういう類型によく当てはまっているように見えるし、「自民党をぶっ壊す」と政治エリート否定のようなことを有権者に直接訴えかけた小泉純一郎元首相も、ポピュリズム的手法に長けていたと言えるのではないか。
ポピュリズムが政治を活性化させることもあるが、その国を混乱に陥れることもある。識者が民主主義に対して疑問を投げかけるとき、国民の中に、一気に得体のしれない群集心理がヒートアップして、ポピュリズム政治を実現させてしまうことを嘆いているケースが多いように思う。民主主義の発端と言われる古代ギリシアにも、デマゴーグと呼ばれる扇動家が有権者を混乱させる事例があったらしい。
まさにアリストテレスが嘆いたように、民主主義には衆愚政に堕してしまう危険性が常に付きまとう。
民主主義は多数決の仕組みである。だからこそ国民の総意に近い形での政治的意思決定ができるともいえるが、多数がデマゴーグに流されてしまったら、国を混乱させてしまうかもしれない。だからこそ、昔から、少数の優秀な支配者に政治をゆだねるべきだ、という考え方もある。プラトンは、大勢の愚者が数の力で政治を行う民主主義を排斥し、最も優れた理性と、最も高い批判力を備えた哲人が政治を指導するような組織こそ、堕落した人間の魂を救う理想の国家形態であると論じた。
民主主義の価値
しかし様々な問題をはらむからと言って民主主義を軽率に扱っていいかというと、そういうわけにはいかない。そもそもあえて若干大げさな言い方をすれば、人類の歴史は民主主義の獲得の歴史ともいえるのだ。世界史をざっと眺めてみるだけでも一目瞭然なように、古代にせよ中世にせよ、大昔の時代は君主なり皇帝なり、一握りの支配者が国全体を治めるケースの方が圧倒的に普通だった。
それがイギリスにおいては1215年のマグナカルタにおいて王権に歯止めがかけられ法の支配が確立し、さらに1688年の名誉革命においてはさらに国王の権限が制限され、王権に対する議会の優位が認められ、議会政治の基礎ができた。
アメリカでは1770年代以降の独立革命において、イギリスの支配から脱して共和制国家建設の試みがなされ、1778年の独立宣言にはすべての人々の平等、自由・幸福の追求権などがうたわれた。
1789年のフランス革命においては、人権宣言において、人間の生来の自由、権利の平等、国民主権、租税の平等、所有権の確立など新しい原則を打ち出した。
さらに古代、中世などにわずかに見られた民主政に比して、議会で代表者が討論し合ういわゆる代議制民主制が確立したのはようやく19世紀に入ってからだが、選挙権は当初はどこの国でも限られていた。一定額の納税実績のある成年男子のみに選挙権があるのが普通で、その後の選挙権の拡大にも時間がかかった。
日本で言うと、明治の憲法のもとではじめて議会制度ができたころには、直接国税年額15円以上を納めなければ、議員の選挙に加わることができなかった。それを、明治33年の選挙法の改正で、税額10円にまで引き下げた。それでも当時の貨幣価値から言えば、相当な収入のある人でないとその納税は難しかった。そこで、大正8年には税額が3円に改められた。これに対して、いわゆる普通選挙の運動というものが盛んに展開され、大正14年の改正選挙法によって、一切の納税及び財産の資格が取り除かれ、租税を納めない貧乏人であっても、年齢が満25歳以上であり、重い刑罰に処せられたものや精神上の不具者でない限り、選挙権を有するということになったのである。
さらに戦後になると女性の選挙参加が一挙に実現すると同時に、選挙を行うための年齢の資格も、満20歳に引き下げられた。
先に書いたボトムアップという表現は民主主義に対しては軽すぎるかもしれない。民主主義は個人を尊び、個人の自由を重んずる。
専制国家や封建的な社会においては、一般庶民や地位の低い国民は軽んぜられる。そこには人間尊重の態度がない。やはり先進文明国は、民主主義を積極的に推し進めていく必要があると思われる。
自由な議論の結果、政治的意見の衝突がにっちもさっちも行かなくなっても、正しい道と正しくない道との区別はやがてはっきりとわかるときが来る。なんで分かるかというと、経験がそれを教えてくれるのである。神ならぬ人間には、あらかじめその区別を絶対の確実さをもって知ることはできない。しかし、多数決によって問題のけりをつけ、その方針で法律を作り、政治をやってみると、その結果は、まもなく実地に現れてくる。公共の福祉のためにやはりその方がよかった、ということになる場合もある。逆に、多数の意見で決めた方針が間違っていて、少数意見に従っておいた方がよかったということが、事実によって明らかに示される場合もある。前の場合ならば、そのままでよい。あとのような場合には、少数意見によって示された方針によって法律を改め、政治のやり方を変えていく必要が起こる。その場合には、国民はもはや前の多数意見を支持しないであろう。反対に、今までは少数であった意見を多くの人が支持するようになるであろう。そうなれば、以前の多数意見は少数意見になり、少数意見は多数意見になり、改めて国会で議決することにより、法律を改正することができる。このようにして、法律がだんだんと進歩していって、政治が次第に正しい方向に向かうようになっていく。かくのごとくに、多数決の結果を絶えず経験によって修正し、国民の批判と協力とを通じて政治を不断に進歩させていくところに、民主主義の本当の強みがある。
また、国際政治の章でも述べてあるが、カントが提示した「民主主義国家同士では戦争は起こりにくい」というテーゼがある。カントは世界のすべての国が民主主義国になるべきだと主張していたようだ。
すべての国々が民主主義になり切ることは、なぜ世界平和の最も大切な条件となるか。
この問いに対する答えは、きわめて簡単である。なぜならば、民主主義は「国民の政治」だからである。どこの国民だって、どんなに好戦的と言われる国の国民だって、一人一人が冷静に考えるならば、その大部分は戦争をしたいなどと思うはずはない。戦争が起これば、多数の国民は兵隊になって戦場におもむき、死の危険にさらされる。そればかりでなく、近代戦では、国内にあっても爆撃を受け、女・子供もその犠牲となる。家や財産を焼かれる。莫大な戦費を負担し、経済生活は大きな打撃をこうむる。昔、中国の詩人は、「一将功成って、万骨枯る」と詠じた。勝ち戦の場合でさえそうである。まして、負け戦となれば、その惨状は例える者もない。そんな戦争を好むのは、戦争によって野心を満足させようとする一部の政治家や、軍閥や、戦時経済によって大儲けをしようと企てる財閥だけである。だから、国民の多数の意思が政治を動かす仕組みになっていれば、戦争の起こる恐れは非常に少なくなる。世界中のすべての国々が本当の民主主義の組織を持てば、世界平和の基礎は確立される。
コメント