日米の経済的関係ー2度の日本叩きー
このページでは日米関係の経済面を見ていきたいと思う。というか、日米関係は軍事面や外交戦略、経済が複雑に絡み合っているので、スッキリ分けられるものでもないと思うが、便宜上、このページでは経済のテーマを中心に論じていきたいと思う。
文春新書の近著(25年1月時点)で、コンサル経営者の斎藤ジンという方が日米関係の素晴らしい分析を披歴されている。
第一次大戦後のアメリカはいわば、世界というカジノのオーナーであり、アメリカの意向次第でカジノのルールは変わってしまう。良くも悪くも、他の国はカジノオーナーのルール設定、ルール変更に振り回されざるを得ない、ということ。
過去100年で、アメリカは2回統治観を根本的に変えており、それは1930年代の「自由放任主義」から「大きな政府」への転換と、1980年代のレーガン革命時の「大きな政府」から「小さな政府」へのシフトだということ。
そして覇権国家はナンバー2の国がその座を脅かす存在になると叩く。日本はくしくも上記のアメリカの統治観の変遷期に重なるように、この100年で2回叩かれているというのだ。
1度目は1930年代、東アジアで勢力拡大する日本を目障りだと感じたアメリカは、禁輸措置やその他の制裁を通じ、日本を締め付けた。
しかし第二次大戦後に冷戦がはじまると、アメリカは日本を戦略的パートナーにすることを決めた。日本は冷戦という地政学的条件の下で、アジアに一定の力を備えた同盟国を必要としたアメリカによって助けられ、”破格の待遇”を与えられたというのだ。
アメリカが強い日本を求める中、1950年代の日米繊維摩擦や鉄鋼や造船などは、深刻な問題にはならなかった。しかし対象が自動車、半導体となってくる1970年代に入ると、日米貿易摩擦はヒートアップするようになった。1980年代になると日米の産業競争はますます激化し、アメリカは様々な日本製品に対して100%の関税を課し、新世代技術の分野(半導体、スーパーコンピューター、核燃料サイクル、衛星)で日本をその市場から締め出し、さらに「円の国際化」を阻止するなど、日本の経済的、技術的な影響力の拡大を抑え込もうとした。
2度目の日本叩きにつながる、日米関係の転換の決定的瞬間が冷戦の終結(1989)とソ連の崩壊(1991)だった。戦後最大の敵を葬り去ったアメリカには、これ以上、日本を「特別扱い」する理由がなくなった。それどころか、アメリカの矛先は完全に日本へとシフトする。その前兆となる動きは冷戦終結前のプラザ合意からあった。ドル高是正、すなわち円高への誘導によって、日本の輸出関連産業は打撃を受けている。
アメリカは、地政学的な打算からこれまで下駄をはかせてきた「大きな政府」時代の過去の遺物である日本を潰すつもりだったのだ。90年代以降の構造協議は貿易のみならず日本のビジネスの仕方や制度にまで手を突っ込んで、日本の強みを叩いていくというものだった。例えば半導体協議の結果、日本は事実上、生産拠点を海外に移転するしか道は残されていなかった。
90年代以降、アメリカは統治感を「大きな政府」方式から「小さな政府」方式にシフトしたので、「小さな政府」の教義である「新自由主義」に、日本も国内経済システムを合わせることを、余儀なくされるようになるのである。日本の戦後経済システムは新自由主義的理想とはかけ離れたものであったので、アメリカはワシントンコンセンサス(国際情勢よもやま話参照)等を振りかざして、日本に変革を迫るようになったのだ。市場原理の重視、規制緩和、民営化、財政支出の引き締め、ルールベースの通商政策…といったものを通じて「大きな政府」を「小さな政府」へシフトしていく流れに、日本も付き合わされる羽目になるのである。
プラザ合意~バブル崩壊
上記が日米の経済的現代史のどマクロな流れなのだが、今のお偉いさん世代?の方々が一番鮮明に覚えている日米関係のインパクト出来事と言えば、何と言ってもプラザ合意(とその後に起こったバブル崩壊)だろう。
80年代のアメリカはドル高に苦しんでいた…といっても70年代からの行き過ぎたインフレを抑えるためにボルカーFRB議長が金利を引き上げまくって、アメリカの政策によって勝手にドルが上がっていただけだったので自業自得なのだが、そのドルでアメリカの貿易産業が苦しいとなると、すぐに国際協調を持ち出して他国に通貨の切り上げ(それによる相対的ドル下げ)を願い出るという、実に都合のいい振る舞いをしていたわけだが、それもカジノのオーナーたる覇権国家の面目躍如というものななのか。
1985年にG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)で為替レートの安定化に関する合意がなされた。開催場所となったニューヨークのプラザホテルにちなんでプラザ合意と呼ばれている。
これに出席した、ときの大蔵大臣は竹下登。それに合わせるように、ときの首相の中曽根康弘は私的諮問機関である経済構造調整研究会を動かして、86年に前川レポートというものを発表した。研究会の座長が前川春雄元日銀総裁だったことから、前川レポートと呼ばれている。
前川レポートの主な内容は以下のようなものである。
・内需主導型経済への転換
・輸出入・産業構造の抜本的転換
・金融資本市場の自由化・国際化の推進
・マル優などの貯蓄優遇税制の見直し
特に多くの人の印象に残っているのは1番目の「内需主導型経済への転換」だろう。アメリカに「貿易ばかりで儲けてる(そしてアメリカを貿易赤字にしている)のはけしからん」と言われて円高にさせられた日本は、貿易という外需頼みの経済から、内需メインの経済に転換することを求められた。そこでやったことが日銀による低金利誘導であり、日銀の窓口指導による銀行の積極融資である。これが80年代バブルを生みだしたことは周知の通りである。
日米構造協議
日米両国が貿易不均衡を是正することを目的として、1989年から1990年にかけて日米構造協議という外交交渉が行われていた。1989年9月の第1回の構造協議の直前に、アメリカ政府側から日本側へ渡された資料の骨子は以下のようなものであった。長い資料だが引用してみたいと思う。細かい文章なので、ザーッと斜め読みで次項に移っていただいても構わない。
貯蓄・投資パターン
日本は他のほとんどの先進諸国と比べ、高い水準の貯蓄率を保っている。国内の投資は、国際水準よりは高いものの、高い貯蓄率と比べると相対的に落ちている。この貯蓄・投資の不均衡は、日本で1980年代を通じて生じた経常黒字の原因となっている。この過剰な黒字を改善するためには、国内の貯蓄・投資不均衡を解消することが求められている。
また、投資に関しては、日本政府は今後数年間に、最近の大幅な税収増を使って、1970年代初めに作られた、公共投資の配分に関する自らの長期政策の目標を達するために努力すべきである。これら長期的ゴールを達成するために、効果的な出発点となるのは、前川レポートである。
土地利用
日本の土地と住宅の価格が高いことは、過剰な貯蓄を奨励する一方、持ち家に対する出費を抑え、かつ住宅、ビルの建設を抑制するので、直接消費に影響し、そして当然ながら輸入量にも影響を与える。また、土地の高価格は市場参入のコストを上げる。さらに、限られた予算からねん出される公共投資を食いつぶしている。
日本の土地利用について研究すると、土地代が高いことは、都市化、線引き、税制などの政策に直接関係していることが浮き彫りになる。例えば、税制は格安な土地保有税と割高な売却税の組み合わせで、土地所有者の売却意欲を低めている。都市部の農地には、さらに問題がある。次に、線引きと建築基準法による規制で、建物の大きさと高さが制限されていて、住宅地での建設を抑制している。
流通
消費者向け、産業用を問わず様々なアメリカ製品は、価格、品質の両面で、国際的にも極めて高い競争力を持っている。にもかかわらず、他の第三国市場に比べ、日本の市場には極めてわずかしか参入していない。もし輸入に対する構造的障害が、正しく指導され、除去されれば、日本でもアメリカ製品は競争力を持つはずである。日本の政策と民間の反競争的商習慣が、こうした変化を妨害したり、遅らせている。具体的には、トラック輸送や航空輸送があまりに多くの面で過剰に規制されており、輸送コストを吊り上げ、新規参入を妨害している。また日本では、税関の手続きがコストと時間を費やすものとなっており、その結果、輸入品の価格を押し上げ、新製品が市場に出回るのを遅くしている。
さらに日本においては、量販店、デパート、スーパー、ディスカウントストアなどがアメリカ製品の主な販売ルートであるが、日本の法律は零細な小売業者に、こうした大型店の出店に対して拒否する権利を与えており、その結果、外国製品が出回ることを阻害している。
酒類販売許可法は大型店にアルコール類の販売を禁止しており、輸入ビール、ワイン、アルコールが出回るのを阻害し、価格を吊り上げている。医薬品をパッケージで売る場合も、ある種の調剤設備を持つことが義務付けられており、スーパーマーケットが医薬品を売ることを制限している。また郵便や電話に商業的割引が無く、アメリカにおいて重要な販売手段となっている、カタログや料金相手払いの電話を使っての通信販売が妨げられている。また、自動車に見られるような独占的なディーラー制度や、生産者が最終販売までの製品の所有権を持ち、価格維持などの規制を設けるといった委託取り決め、高額で差別的なリベートなど、反競争的商慣行なども輸入品の市場参入を阻害している。
系列
日本の企業グループ、つまり水平的な金融系列と、垂直的な社会のネットワーク(資本グループや下請け、元請け関係)は、アメリカ企業にとって、日本市場への参入、もしくはシェア拡大の妨げとなっている。グループ間の取引を好む傾向は、市場原理に基づくアウトサイダーの中間製品やサービスの販売を妨害している。歪んだ市場原理の中で系列は、買収を思いとどまらせるという意味でも重要である。日本の市場参入にあたって、実績ある販売とマーケティングの組織を買収することは有力な手段であるが、製造業、金融業、サービス業のグループの株の持ち合いは、とても偶然の結果と思えないほどの高い水準に達しており、製品、サービス、会社の資産の自由な流れを妨げている。さらに、これはアウトサイダーによる非友好的な乗っ取りを防ぐとともに、友好的な買収さえ問題があるように見せかける。株主の権利を低下させる働きをしている。
価格メカニズム
円ドルレートの大幅な修正に対して、価格があまりに反応していないことは、日本の価格が、いかに硬直的かを示すこととなった。日本の価格決定が、アメリカに対して極めて差別的な例は無限にある。商務省による調査は、同じ日本製品の日本における価格と、アメリカにおける価格との間に極めて大きな不均衡があること、日本における外国製品の価格競争力を阻害している構造的な要素は、同時に、日本企業が、国内では考えられないような、不当な安い価格で輸出させることを可能にしていることの二点を強く示唆している。
ここ数年の日本との貿易交渉は、輸入の量的制限や産業再編への政府指導、公的に認知されたカルテル、政府の価格指導などの公的な貿易障壁を減らすことにおいて成果を上げてきた。しかし、こうした前進にもかかわらず、依然として価格に関する大きな硬直性が存在していることは、公的でない貿易障壁が、価格形成の阻害要因であると考えられる。それは、新規参入者の機会を制限する長期的な供給、取引関係、新規参入を妨げ、安い製品が消費者に届くことを妨げている流通システムの非効率性、国内企業による非公認カルテルやなれ合いによる行動様式などである。
排他的取引慣行
日本企業は個々に、また集団的に、日本の国内市場に対する外国企業の参入を排除、ないしは最小限に食い止めようとする。こうした排他的行為の多くは、日本政府の政策と行政から生じている。過去数十年、日本の市場の多くの分野で、公然とした貿易障害、行政指導が、市場の「安定」とか「合理化」といった名目の下、行われてきた。こうした政策は、外国企業を日本市場から締め出そうとする産業界の体質を生み、永続化してきた。
また、知的所有権に関する日本での扱いにおいて、外国企業は、特許の承認が際立って遅らされている。また、特許がオリジナルとちょっとでも違うと、日本企業はすぐ出願する。これは外国の特許所有者に対して、クロスライセンス契約を結ぶか、費用のかさむ法廷闘争に持ち込むかのいずれかの選択を迫る狙いがある。
さらに、公共事業の入札の運用では、アメリカ企業が日本市場から締め出されている。公正取引委員会と建設省の入札についてのガイダンスは、欧米の基準と比べて全く厳しくない。刑事罰は一度も入札に適用されたことが無く、課徴金も極めて寛容だ。現行の入札制度を変えない限り、アメリカ企業は公共事業に参加できない。
日本における独禁法の運用は、欧米のそれと比べて活発なものとはとても言えない。前向きに対処しようとしない、こうした風習は、日本市場への新規参入を制限しようとすることを含めて、民間の反競争的な行為を増長させている。
90年代以降の日米経済関係ー公共事業ー
これまた周知の通りで80年代バブルははじけるのだが、その後の日米関係がまたふるっている。内需拡大政策は続けないといけないので、バブル崩壊後の日本経済を活性化させる意味も込めて、90年当時首相であった海部俊樹氏はアメリカに対する公約として、「今後10年間で430兆円の公共投資を行う」と明言したのだ。90年はまだ、バブル崩壊がどの程度の問題になるかよく分かっていなかった。しかし、日本経済が深刻になるにつれて、もっと日本経済への手当てが必要だとのことで、この公共事業の公約は上方修正され、630兆円にまで膨らんだ。つまり、日本が今、1000兆円超の借金を背負わされて苦しい等と言っている財政状況を作った、最初の犯人はアメリカともいえるのである。しかしこれは単に、前項の日米構造協議の「貯蓄・投資パターン」その他の対日要望に、日本政府が素直に答えただけの経済政策ともいえるのである。
またほぼ同時期だが、89年にはアメリカは悪名高い通商法スーパー301条を日本に対して発動した。これは不公正貿易国を特定して交渉し、成果を得られなければ関税引き上げなどの報復措置を実行することを定めたもの。アメリカはスーパー301条を盾にとって日本と交渉し、当時の大規模小売店舗法という法律を日本政府に廃止させた。これは街の商店街を守るために大型スーパーなどが簡単に出店できないように規制するための法律だった。
しかし大規模小売店舗法が廃止されたために、例えばアメリカから、日本上陸を熱望していたトイザらスが進出してきた。今、各地方都市でイオンが大きな郊外店舗を設置できているのも大店法が無くなったおかげである。それに準じた流れとして、案の定、街の商店街は立ち行かなくなるところが続出し、全国的に駅前はシャッター商店街ばかり、という社会現象が起きてしまった。しかしこれもある意味では、前項の日米構造協議の、「流通」その他の対日要望を反映させた結果だともいえるのである。
年次改革要望書・日米投資イニシアティブ
この時代の日米の合意文書で有名なのは何と言っても「年次改革要望書」だと思う。これは宮沢・クリントン合意によって始められたものなのだが、2000年代以降も「日米投資イニシアティブ」と名前を変えて、ほとんど同じ内容で受け継がれている。また上記の日米構造協議の対日要望とも、連続した内容と言えるだろう。
要はアメリカにとって都合のいい、新自由主義的なルールを日本の経済界に受け入れさせて、日本の市場もアメリカ産業界にとって入り込みやすい市場に転換させようとの趣旨のものだ。
例えば2001年の日米投資イニシアティブの内容は企業組織のあり方、会計監査制度、M&A、労働の流動化、土地の流動化等であった。(正式な「日米投資イニシアティブ報告書」が作成されたのは2002年)
報告書の要旨には以下のことが掲げられていた。
①日本経済を再生させるためには、海外からの対日直接投資が促進されなければならない。
②外国企業が日本経済に実質的な影響を与えるために、日本企業が米国型コーポレートガバナンス制度を選択できるよう、会社法の改正を行う。
③透明な会計手続き、ストックオプションの自由化、労働の流動化、土地の流動化等における進展は、国内外の投資を容易にし、生産性と成長を促進していく助けとなるだろう。
④M&Aを行い難くしている「規制」を取り除くこと。
2000年代の初頭に、規制緩和で派遣型労働が拡大されて、日本の若い労働者の賃金が下がったとか、あるいは不良債権処理等を通じて体力が弱った日本企業が次々に外資に買収されていく「ハゲタカ」現象などが話題になり、ときの小泉・竹中政権とその改革が批判の対象になったりもしたが、この時代の日本政府の改革も、アメリカによる対日要望にスンナリ応じただけだったとも言えるのである。
日本型経済とはいかにあるべきか・・・?
これまでは特に触れなかったが、80~90年代の構造協議で改革を迫られた日本型経済というものは、1940年代に形成されたものだ、との指摘がある。経済学者の野口悠紀雄氏が唱えた、いわゆる「1940年体制」論だ。終身雇用、年功序列型賃金、系列取引、こういったものは、何も日本の大昔からの伝統的慣行というワケではなく、戦前の太平翼賛会の時代から戦中にかけて形成されたものだというのだ。要は国民の総力を、企業の生産力としてフル活用するために作られた体制だというのだ。ある種の国家主義的体制、社会主義的体制とも言えるだろうか、全国民が企業の生産力のために、滅私奉公しやすい社会になるように、作られた体制だったともいえる。
戦後のGHQによる民主化改革でも、この日本の産業体制は大きくは変わらなかった、と野口氏は指摘している。この、戦争をも遂行できるほどの強力な産業体制の下で、日本は戦後の高度成長を成し遂げたわけだから、戦後昭和の日本型資本主義が問題だったのかどうかは評価が分かれるだろう。しかし、明らかに冷戦後の世界的な新自由主義の潮流には、日本型資本主義は合わなくなっていた。
しかし、ここで筆者が重要だと思うのは、日本は国内の大きな経済体制の変革を行うとき、「自分からは変われない」ということである。アメリカによる度重なる構造協議の強力な対日改革要望のプレッシャーがあって、初めて日本は様々な改革に着手できたのである。あるいは、項目によっては「そんな改革をする必要はなかった」と思われる方もいるだろう。しかし日本政府は、この頃の対日構造改革の要望を、傍から見れば丸呑みと言ってもいいほど受け入れている。この頃、中曽根康弘はジャーナリストの田原総一朗に対して「日本は軍事を丸ごとアメリカに頼っているんだから、向こうからの経済の要望は受け入れざるを得ないんだ」という趣旨のコメントを言ったとされている。「外圧」が無いと、日本は大きな国内改革ができないのである。日本はいつもいつも、アメリカに合わせる形でしか経済体制を組むことができないのだろうか。日本が自分から、自国に本当に合った形の経済体制を創出することは、できないのだろうか。
参照文献・引用文献
「拒否できない日本」関岡 英之
「売られ続ける日本、買い漁るアメリカ」本山 美彦
「世界秩序が変わるとき」齋藤 ジン
「マネー敗戦」吉川 元忠
「属国 日本論」副島 隆彦
「株式会社アメリカの日本解体計画」堤 未果