日米関係(軍事・外交面)

この章では日米関係の軍事・外交面について書いていきたいと思う。

日本は日米安全保障条約で、アメリカの軍事力・核の傘に守ってもらっている、というメリットがあるが、その反面で、国防という国家の根本要素をアメリカという他国にほぼ丸投げしてしまっているがゆえに、数々の不利益を被っている側面もある、ということがよく指摘されている。

日本はアメリカとの間に、1951年に日米安全保障条約(旧)を締結し、その後、それを改定する形で1960年に日米安全保障条約(新)を締結した。

旧条約では、日本がアメリカに基地を提供する義務を負わされるばかりで、アメリカは日本に対して防衛義務を負っていない、アンバランスな片務条約だと言われていた。それをより双務的なバランスのとれた形にするために新安保条約が締結された、ということになっているが、実態は旧安保のときと多くの面で変わっていないという指摘も出ている。

何が変わっていないかというと、要するに米軍が日本を都合よく利用するための既得権益が変わっていないということだ。その代表的なものが、

・基地の管理権

・裁判管轄権・捜査権

である。

基地の管理権

米軍の日本における基地の管理権をもっともよく表しているものが、旧安保条約の1条ではないだろうか。

旧安保条約 第1条

平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその付近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。(以下略)

これは全土基地方式とも呼ばれる。国の一部のこの部分だけを基地として提供しますよ、というワケではなく、その国全域が、いつでもどこでも基地になり得ますよ、ということだ。

この内容は改正されて新安保6条に受け継がれていると言われる。

新安保条約 第6条

日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、1952年2月28日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定(改正を含む。)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。

この後段に出てくる地位協定(行政協定に代わる協定)の、基地権に関する部分が、地位協定2条、3条だ。

日米地位協定

第2条(基地の提供と返還)

1(a)合衆国は、日米安保条約第6条の規定に基づき、日本国内の基地の使用を許される。個々の基地に関する協定は、第25条に定める合同委員会を通じて両政府が締結しなければならない。(中略)

2 日本国政府及び合衆国政府は、いずれか一方の要請があるときは、前記の取り決めを再検討しなければならず、また、前記の基地を日本国に返還すべきことまたは新たに基地を提供することを合意することができる。(中略)

第3条(基地内の合衆国の管理権)

1 合衆国は基地内において、それらの設定、運営、警護および管理のため必要なすべての措置をとることができる。日本国政府は、基地の支持、警護及び管理のため合衆国軍隊の基地への出入りの便を図るため、合衆国軍隊の要請があったときは、合同委員会を通ずる両政府間の協議の上で、それらの基地に隣接しまたはそれらの近傍の土地、領水及び空間において、関係法令の範囲内で必要な措置をとるものとする。合衆国も、また、合同委員会を通ずる両政府間の協議の上で前期の目的のため必要な措置をとることができる。(中略)

外務省は省内の機密文書「日米地位協定の考え方」等で、上記の2条、3条の内容からすれば①米軍は日本国内のどこでも基地を提供するよう求める権利があること、②日本側はそうした要求にすべて応じる義務はないが、「合理的な理由」がなければ拒否できない、としている。

また、上記2条3条両方とも合同委員会の記述が出てくるが、それを定めた条文が以下である。

第25条(合同委員会)

1 この協定の実施に関して相互間の教義を必要とする全ての事項に関する日本国政府と合衆国政府との間の協議機関として、合同委員会を設置する。合同委員会は、特に、合衆国が日米安保条約の目的の遂行に当たって使用するために必要とされる日本国内の基地を決定する協議機関として、任務を行う。

日米合同委員会は、「米軍が『戦後日本』において、占領期の特権をそのまま持ち続けるためのリモコン装置」とも言われている(ジャーナリスト吉田敏浩氏)。

また、日米安保改定の際に日米両政府が別途作成し、長らく非公開だった「日米地位協定合意議事録」では、日米行政協定と変わらずに米軍が基地外でも独自の判断で行動でき、米軍の関係者や財産を守れる旨が定められている、と言われる。

また、基地権密約文書も発見されている、と言われている。1959年12月3日にマッカーサー駐日大使と藤山外務大臣が合意した文書であり、そこには「基地の問題についての実質的な変更はしない」という内容が記されているというのだ。

また、ジャーナリスト矢部浩治さん等の著書で有名になった、米軍専用の空域というものが、日本の上空にはある。代表的なものが「横田空域」「岩国空域」「嘉手納空域」で、そこは米軍の専用とされており、日本の航空機はそこを避けて飛ばないといけない。しかし、そのこと、それら空域は米軍の専用である、ということを明確に根拠づける法律は無いらしい。根拠らしきものはと言えば、日米合同委員会の合意のみ、と外務省も認めている、ということである。

あるいは、航空法特例法が根拠になる、という見方もある。

航空法特例法 第3講

「前項の航空機(米軍機と国連軍機)については、航空法第6章の規定は適用しない」

ここでいう航空法第6章は「離着陸する場所」「飛行禁止区域」「最低速度」「制限速度」「飛行計画の通報と承認」等、航空機が安全に運航するための条文が、米軍機には適用されないことになっている、ということである。


裁判管轄権・捜査権

日本の法務当局は、米軍関係者を日本の法令にのっとって捜査したり裁判する権限がない、とまことしやかに言われている。ジャーナリスト矢部浩治さんは、そのことを端的に表しているものが、日本の法務当局にある裏マニュアルの存在だという。

①最高裁の部外秘資料(1952年9月:正式名称は「日米地位協定に伴う民事及び刑事特別法関係資料」最高裁判所事務総局/編集・発行)

②検察の「実務資料」(1972年3月:正式名称は「合衆国軍隊構成員等に対する刑事裁判権関係実務資料」法務省刑事局/作成・発行)

③外務省の「日米地位協定の考え方」(1973年4月:外務省条約局/作成)

これらを簡単に説明すると、つまり米軍と日本の官僚の代表が非公開で協議し、そこで決定された方針が法務省経由で検察庁に伝えられる。報告を受けた検察庁は、自らが軽めの求刑をすると同時に、裁判所に対しても軽めの判決をするように働きかける。裁判所はその働きかけ通りに、あり得ないほど軽い判決を出す、という流れ・・・とのことである。

③の日米地位協定について少し補足すると、地位協定の17条が、米軍に有利な裁判権の最大の根拠になっていると思われる。

日米地位協定

第17条(刑事裁判権)

3 裁判権を行使する権利が競合する場合には、次の規定が適用される。

(a)合衆国の軍当局は、次の罪については、合衆国軍隊の構成員または軍属に対して裁判権を行使する第一次の権利を有する。

(ⅰ)(略)

(ⅱ)公務執行中の作為または不作為から生ずる罪

(b)その他の罪については、日本国の当局が、裁判権を行使する第一次の権利を有する。

つまり米軍関係者の公務執行中の罪に関しては、軍当局に裁判権がありますよ、と規定されているわけだが、米軍はこれを盾にとって、軍関係者のありとあらゆる罪を「公務執行中」だと言い訳をして、日本に裁判権を渡そうとしない、と言われている。


砂川判決

それに、上記裏マニュアルの最大のルーツになっていると思われるのが、有名な砂川判決である。砂川判決の名前自体は有名かもしれないが、皆さんはその具体的な経緯をご存じだろうか?

1955年(昭和30年)5月に日本政府が米軍立川基地の飛行場の滑走路拡張計画と、拡張予定地の接収を砂川町当局に通告。地元農民を中心に激しい反対運動が巻き起こったが、政府は日米安保条約に基づく駐留軍用地特措法による強制収用にのりだし、55年と56年の秋には警官隊を動員して予定地に踏み込み、測量を強行した。そこで農民やその支援者の労働組合員や学生らとの衝突が起き、千数百人に上る負傷者が出た。これが「砂川闘争」と呼ばれる。57年には米軍基地内に入ったデモ参加者23人が逮捕され、そのうち7人が起訴されるという「砂川事件」が起こった。

その裁判を担当した東京地裁刑事第一三部(裁判長 伊達秋雄)は、判決の中で「米軍駐留は憲法9条違反」という前例のない判断を示した。

この伊達判決が「米軍に不利」だとして衝撃を受けた当時のマッカーサー大使は、藤山外務大臣と交渉し、最高裁に直接上告するよう促した。高裁への控訴という通常の手続きを踏まずに、最高裁へ上告することを「跳躍上告」という。

そして結局、田中最高裁長官が指揮する最高裁は、概略以下のような判決を下した。

「憲法9条2項がその保持を禁止した戦力とは、我が国が主体となって指揮権・管理権を行使しうる戦力を意味する。

日米安保条約は我が国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有するものだ。だからその内容が意見か合憲かの法的判断は、その条約を締結した内閣と、それを承認した国会の政治的、自由裁量的判断と表裏一体をなしている。それゆえ、意見か合憲かの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則として馴染まない。

だから、一見極めて明白に違憲無効と認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものである。

米軍の駐留は憲法9条、98条2項、前文に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない」

米軍の駐留を違憲であるとした東京地裁の判決は、最高裁の判決によって180度くつがえったのである。マッカーサー大使は、田中最高裁長官に直接働きかけていたと言われる。

この判決を見たその後の時代の官僚たちは、米軍の裁量に抵触しないような法務執行のマニュアルを内々に作るに至った・・・と考えるのが自然ではないだろうか。

ジャーナリストの矢部浩治さんは、砂川判決の後の日本の法体系からは憲法が抜け落ちている、あるいは憲法法体系と安保法体系が分かれてしまったと説明している。

核密約

この下で述べる「自由出撃密約」とも共通するテーマだが、1960年の安保改定時、安保条約の付随文書として「事前協議」の旨を定めた公文が取り交わされたことが分かっている。「岸・ハーター交換公文」というもので、日本国内の米軍に変更が生じる場合、または日本発の作戦行動を取る場合は、日米政府の事前協議の対象とする、ことを定めた文書だ。

しかし、その結果の方がよく知られているかもしれないが、この取り決めは結果的にほぼ骨抜きになっている。

沖縄への核の再持ち込みに関しては、佐藤内閣の沖縄返還時に密約が交わされたことが知られている。沖縄返還後も、緊急事態には事前協議ではなく、事前通告を持って核兵器を沖縄に持ち込めること、また、嘉手納、辺野古、那覇空軍基地・施設はいつでも核貯蔵施設として使える状態にスタンバイしておくこと、が密約には定めてある。

自由出撃密約

朝鮮戦争の際、米軍が主導する国連軍が編成されたことになっている。厳密にいうと正式な国連軍ではなく、安保理の勧告に基づいてアメリカとその同盟国が編成したものだった。在日米軍が国連軍と見なされたことにより、日本にも国連軍基地があることになっている。日本の国連軍基地は、横田基地、キャンプ座間、横須賀基地、佐世保基地、嘉手納基地、普天間基地、ホワイトビーチである。ともかく、在日米軍が国連軍ともみなされることによって、再び朝鮮有事が起こった場合、在日米軍は日本政府との事前協議なしに作成行動を発動できると解されている。日米安保には事前協議の取り決めが付随しているが、国連軍地位協定にはそのような取り決めがないからだ。

またそもそも、もっと直接的な形で、米軍の自由出撃を認める密約が交わされている、という指摘も出ている。1960年に藤山愛一郎外務大臣とマッカーサー大使の間で交わされたものだ。

すでに亡くなられている村田良平元外務次官は、次のように述べている。

「安保改定後、事前協議は一度も行われたことはない。ということは、いかに実質のない譲歩を米側が日本の世論のために行ったかということだ。」

参考文献:

「知ってはいけない1・2」矢部浩治著 講談社現代新書

「日本はなぜ『基地』と『原発』を止められないのか」矢部浩治著 集英社インターナショナル

「はじめて読む日米安保条約」坂元一哉著 宝島社

「日米地位協定入門」前泊博盛著 創元社

「検証・法治国家崩壊」吉田敏浩著 創元社

「日米地位協定」山本章子著 中公新書

「在日米軍基地」川名晋史著 中公新書

「朝鮮戦争はなぜ終わらないのか」五味洋治著

 

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