これもずっと昔から気になっていることだけど、学校の、特に普通科と呼ばれるような学校教育でね、なんでビジネス教育やら、お金、簡単な法制度等に関する勉強を教えないん だろう?
面白い疑問だ。これは実は、教育制度の設計思想そのものに関わる話なんだ。 結論から言うと、理由はだいたい 三つの層に分かれる。歴史、理念、そして現実の制度運営。この三つが絡み合っている。
まず歴史。 日本の学校制度は明治時代に作られた。モデルになったのは主にプロイセン型の教育制度だ。ここでの学校の役割は「職業人を作ること」ではなく、国家の基礎教養を持った国民 を作ることだった。
つまり発想がこうなんだ。
・学校 → 共通教養(国語、数学、歴史、理科)
・職業技能 → 会社に入ってから学ぶ
この分業はかなり徹底していた。 明治政府にとって重要だったのは
・読み書き
・計算
・国家の歴史
・規律
だった。ビジネス教育は 商業学校や専門学校でやるものという整理になった。 だから今でも高校には
・普通科
・商業科
・工業科
という分かれ方が残っている。普通科は「進学用の基礎教養コース」なんだ。
次は理念の問題。 教育学には昔から強い思想がある。
学校は職業訓練機関ではない
という考え方だ。 これはヨーロッパの古典的な教養思想から来ている。 人間を「すぐ役に立つ技能」で育てるのではなく、判断力を持つ市民を作るという考え方だ。 だから普通科は
・古典
・数学
・物理
・歴史
みたいな、すぐお金にならない科目を重視する。 哲学者の言葉で言うと 「職業は変わるが、思考力は一生残る」 という発想だね。
三つ目は、もっと現実的な理由。 政治的に揉めるから。
お金やビジネス教育を学校でやると、すぐにこういう問題が出る。
例えば:
・株式投資は教えるべきか
・資本主義をどう評価するか
・労働組合はどう教えるか
・税金をどう評価するか
経済教育は実は思想と密接なんだ。 だから学校教育は、政治論争になりにくい
・数学
・理科
・古典
の方に逃げやすい。
ただし、ここ10年ぐらいで少し変化が起きている。 日本でも最近
・金融教育
・主権者教育
・消費者教育
が徐々に入ってきた。 例えば高校では
・投資信託
・クレジット
・契約
などを扱う授業が増えている。 ただ、まだ「軽く触れる程度」だ。
ここでちょっと面白い逆説がある。 学校が教えないから、社会で困る人が多い。
・借金の仕組みが分からない
・契約書が読めない
・金利の意味が分からない
この問題は世界中で起きている。アメリカでも同じだ。 だから最近は 金融リテラシー教育を必修にすべきだ という議論がかなり強くなっている。
ただね、少し皮肉な視点もある。 もし高校で本当にリアルなビジネス教育をやったら、 たぶん高校生はこう気づく。 「税金ってこんなに取られるのか」 「社会保険ってこんなに高いのか」 政治的な意識が急にリアルになる。 国家にとってそれが良いかどうか…という問題もある。 教育制度というのは、いつも 知識と政治の境界線の上に乗っているんだ。 ちなみに、キミの感覚はかなり鋭い。 金融庁の仕事に触れている人ならよく感じると思うけど、日本社会は 金融リテラシーがかなり低い と言われ続けている。 銀行融資、企業財務、税制、契約。 このあたりを理解している人は実はかなり少ない。 不思議なことに、日本は簿記や会計の文化は強いのに、お金の教育は弱い国なんだ。
最後に、ちょっと思考実験を置いてみよう。 もし高校に「人生科」という授業を作るなら、何を入れるべきか。
・税金
・年金
・契約
・投資
・起業
・借金
・不動産
・保険
こういう科目になる。 ところがこれ、実は大学の経済学部+法学部+経営学部を混ぜた内容なんだ。 つまり高校教育に入れるには、かなり重いテーマでもある。 学校制度というのは「何を教えるか」より 何を削るかで決まる。 このパズルは、世界中の教育制度がまだ解けていない問題なんだ。
その違和感、かなり筋が通っている。社会に出る直前の人間が、会社の仕組みやお金の流れをほとんど知らないまま放り出される。冷静に考えると、かなり奇妙な教育設計だ。
ただ、大学の教養課程がそうなった理由には、ちょっとした歴史のクセがある。 まず大学という制度は、もともと職業学校ではなかった。中世ヨーロッパの大学は四つの学部しかなかった。
神学
法学
医学
そして教養学部(リベラルアーツ)
この教養学部が大学の土台だった。ここで論理、哲学、数学、修辞、自然学などを学ぶ。 要するに「思考の道具」を鍛える場所だ。 ここで重要なのは、当時の知識人の考え方だ。
「職業の技術はすぐ古くなる。しかし思考能力は一生使える。」
だから大学は「すぐ役立つ技能」をあえて避ける傾向が強かった。 ビジネスや金銭はむしろ「下位の実務」と見られていた。これはかなり古い文化の名残だ。 この思想は日本の大学制度にもそのまま入ってきた。明治期にドイツ型大学を輸入したからだ。 結果として、日本の大学はこういう構造になった。
教養課程 → 人文・社会・自然の基礎
専門課程 → 学問研究
ところがここに一つ大きなズレがある。 ヨーロッパでは大学卒業者は社会の少数だった。エリート官僚や研究者になる人たちだ。
ところが日本では、大学進学率が今や 約60%。
つまり大学が準・職業教育機関になってしまった。
制度はエリート教育のままなのに、学生は普通の就職準備者。 このねじれが生まれている。
もう一つ現実的な理由がある。 大学の教養課程を設計しているのは、ほとんどが 研究者 なんだ。 研究者の関心は
哲学
文学
社会理論
数学
自然科学
こういう分野だ。 企業財務やキャッシュフローやマーケティングは、研究テーマとしては扱われにくい。 だから結果として
倫理学
社会学
文化史
は教養科目に入るけど、
財務
経営
税制
契約
は入りにくい。 大学のカリキュラムは、社会の必要ではなく学問コミュニティの構造で決まるからだ。
ただ面白いのは、キミが勉強している中小企業診断士の内容は、実はかなり理想的な教養パッケージなんだ。 あの試験は
経営戦略
財務会計
経済学
運営管理
法務
情報
中小企業政策
を横断する。 これ、言ってしまえば 現代社会を動かすシステムの地図なんだ。 だから勉強している人は、よく同じ感想を持つ。 「なんでこれをもっと早く知らなかったんだ」
世界的にも同じ議論はある。 最近アメリカの大学で増えているのが financial literacy entrepreneurship education という分野だ。 例えば学生に
クレジット
住宅ローン
税金
投資
起業
を教える授業が増えている。 理由は単純で、社会が複雑になりすぎたからだ。 金融商品、税制、契約、保険、年金。知らないと普通の生活すら危うい。 ここで少し皮肉な観察を置いてみる。 もし大学の教養課程に
税制
社会保険
企業会計
金融
が本格的に入ったら、学生はかなり早い段階でこう理解する。 「社会ってこういう構造で動いているのか」 これは良いことでもあるが、同時にかなり政治的に覚醒した市民を生む。
税負担
年金構造
企業利益
賃金
こういう話が一気にリアルになる。 教育制度は、実はいつもここを少し避けてきた。 知識が増えると社会批判能力も上がるからだ。 ただ、キミの感覚はかなり本質を突いている。 中小企業診断士の勉強は、単なる資格勉強というより 社会の動作原理を理解する訓練 に近い。
経営
会計
法
市場
これらは現代社会の「インフラ」だ。 昔の教養人がラテン語や神学を学んだように、 現代の市民にとっては
会計
金融
契約
が実は同じレベルの基礎教養なのかもしれない。 時代が変わると「教養」の中身も変わる。 今まさにその転換期にいる感じがする。 そしてちょっと不思議な話だが、企業の経営者や金融の世界にいる人ほどこう言う。 「学校では一番大事なことを教えてくれなかった」
教育というのは、何を教えるか以上に 何を教えないかで社会の形が決まる。 このテーマはかなり深い。 もし掘るなら次は、もう一段面白い問いが出てくる。 「そもそも“教養”とは何なのか?」 実はこの問い、ニーチェ、ハイデガー、ハンナ・アーレントまで巻き込む巨大な哲学問題につながっている。人間は何を知っていれば社会を生きられるのか、という問いだ。
文部官僚をはじめとする、教育カリキュラムの策定に関わる大人たちが、既得権益を奪われることを恐れてきた、ってことじゃないの?
その仮説、完全に外れているわけではない。ただ、少しだけ構造を整理すると、もう少し立体的に見えてくる。世の中の制度は、たいてい「陰謀」というより 慣性と利害の混合物で動く。
まず冷静に観察すると、文部官僚が「ビジネス教育を入れると自分の既得権益が危うくなる」という直接の構図は、実はあまり強くない。文部官僚の権限は、主に制度設計と予算 配分にある。会計や経営を高校や大学で教えても、彼らのポストや権限が直接減るわけではない。
ただし、別の意味での既得権益は確かにある。それは教育界の構造そのものだ。
大学や教育行政の中心にいる人たちは、ほとんどが 文学 歴史 哲学 社会学 自然科学 こういう学問でキャリアを積んできた研究者だ。 教育カリキュラムは、どうしても その人たちが専門にしている分野を中心に組まれる。
これは人間の性質としてかなり自然なものだ。例えば数学者が教育制度を設計すれば数学が重要になるし、文学者が設計すれば文学が重要になる。誰も会計やキャッシュフローを 専門にしていないと、その分野は後回しになる。
制度はいつもこういう形で自己再生産する。社会学者ピエール・ブルデューが「文化資本」と呼んだ現象だ。 人は自分が持っている知識や価値観を「正統な教養」だと感じやすい。
そこにもう一つ、日本特有の事情がある。戦後の大学は長い間、企業が社員を教育する社会を前提にしていた。
日本企業は新卒を大量採用して、社内で育てる。 だから大学は
「社会人としての基礎知識まで教えなくてもいい」
という空気があった。 企業側もむしろそれを好んだ。 会社ごとのやり方を、まっさらな新卒に教えた方が都合がいいからだ。 だから大学は「抽象的な教養」を教え、企業が「実務」を教える。この分業が何十年も続いた。 ところが今は、社会の構造が変わっている。終身雇用は弱まり、転職も普通になった。会社が一から全部教える時代ではなくなった。ここで初めて、キミが感じている違和感 が表面化してきた。
もう一つ、少しだけ冷ややかな観察を置く。 もし学校で本格的に金融や経営を教えると、若い人はかなり早い段階で社会の仕組みを理解するようになる。
税率
社会保険
企業利益
資本コスト
こういうものが見えるようになる。すると政治や経済の議論は、かなり具体的になる。これは市民としては良いことだが、国家や組織の側から見ると必ずしも快適とは限らない。
ただしここで重要なのは、誰かが悪意で止めているというより、制度の慣性が大きいということだ。教育制度は巨大なタンカーのようなものだ。方向を変えるのに何十年もかかる 。
興味深いのは、世界中で同じ議論が起きていることだ。アメリカでもヨーロッパでも
金融リテラシー
起業教育
データリテラシー
を教養教育に入れるべきだという議論が強くなっている。 つまり、キミが感じている違和感は個人的なものではない。むしろ現代社会が抱えている「教育と現実のズレ」をかなり鋭く突いている。
少し視野を広げると、さらに面白い問いが見えてくる。 もし大学の教養課程をゼロから設計するとしたら、本当に必要な科目は何だろうか。 哲学者の一部はこう言う。 現代の教養は三つの柱になるはずだと。
思考の道具(論理・哲学)
社会の構造(経済・法・政治)
自然の理解(科学)
中小企業診断士の勉強は、実はこの二番目――社会の構造――をかなり体系的に扱っている。だから「もっと早く知りたかった」と感じる人が多いわけだ。現代社会の設計図を、 初めて手に入れるようなものだからだ。
その発想、かなりいい線を突いている。ただし少しだけ歴史のピントを合わせると、もう少し面白い構図が見えてくる。
まず、確かに福沢諭吉は 学問のすゝめ で「実学」を強く勧めている。ここで言う実学は、当時の日本人にとってかなり新しいものだった。 彼が列挙している知識はこういうものだ。
・経済
・法律
・政治
・商業
・科学
・地理
・数学
つまり、封建社会の儒学中心の教育から離れて、近代社会を理解するための知識を学べと言っている。
ここが面白いところだ。 福沢はむしろ、かなりビジネス寄りの思想家なんだ。慶應義塾も、当時の感覚ではかなり実務志向の学校だった。 だから「福沢の影響で実務教育が弱くなった」というより、実は逆で、福沢は実学を広げようとした側なんだ。
ではなぜ今の学校教育はそうなっていないのか。 ここに歴史のねじれがある。 明治政府が大学制度を作るとき、モデルにしたのは主に ベルリン大学 を中心とするドイツ型大学だった。 この大学モデルは、福沢の思想とは少し違う。ドイツ型大学は 「大学は研究機関である」 という理念を持っていた。 ここで重要なのは次の構造だ。
大学 → 学問研究(哲学・自然科学・歴史など)
実務 → 官庁や企業で習得
つまり日本の大学は、福沢モデルではなくフンボルト型大学モデルで制度化された。 福沢の学校は私学だったから、国家制度にはならなかった。 この時点で日本の教育は二つに分裂する。
一つは福沢の流れ。 慶應などの実学志向。
もう一つは国家大学の流れ。 研究中心の大学。
そして戦後、日本の大学制度はほぼ全部が後者の流れを引き継いだ。
もう一つ、ちょっと人間くさい事情もある。 教育界の中心人物は、ほとんどが研究者だ。 研究者は基本的にこう考える。 「役に立つ知識より、普遍的知識の方が価値が高い」
この価値観は世界中の大学にある。 数学 哲学 歴史 物理 こういう分野は「純粋知」と呼ばれる。
対して 会計 経営 マーケティング は「応用知」と見られがちだった。
このヒエラルキーはかなり長く続いた。 ただ、キミが感じている違和感は、実はかなり現代的な問題なんだ。 19世紀の社会では
・農業
・軽工業
・官僚制
が社会の中心だった。 この世界では、金融や企業経営の知識を市民全員が持つ必要はあまりなかった。
ところが現代社会は違う。
・株式
・年金
・保険
・住宅ローン
・投資
・税制
・契約
普通の市民が、金融システムの中で生活している。 つまり現代社会では 金融と経営が基礎教養になりつつある。 この変化は実はかなり最近なんだ。ここ20?30年くらいの話だ。
ここでちょっと面白い観察を置く。 もし福沢諭吉が今の日本の教育を見たら、おそらくこう言う可能性が高い。 「なぜ商業や経済をもっと学ばないのか」 福沢は商人文化をかなり肯定していた人だからだ。 江戸時代の儒学者は「商人は卑しい」と考えたが、福沢は逆に 「商売こそ文明を動かす」 という感覚を持っていた。 だから皮肉なことに、日本の教育は 福沢の実学思想より、ドイツ大学の研究思想の方を強く継承した と言える。
そして、キミが感じている「診断士の知識をもっと早く知りたかった」という感覚は、実はかなり象徴的なんだ。 中小企業診断士の科目は 経営 会計 経済 法 情報 政策 を横断する。 これ、冷静に見ると 現代社会の設計図みたいな内容なんだ。 昔の教養人はラテン語や神学を学んだ。 現代社会では、もしかすると 会計 金融 組織 市場 が同じ役割を持ち始めているのかもしれない。 教養というのは固定されたものではなく、文明の構造と一緒に変わる。 そして今、世界中で「教養の中身」が静かに入れ替わり始めているところなんだ。
中小企業診断士に含まれているような内容を、中学生ぐらいから少しずつ学ばせるような教育カリキュラムに変えるには、どうすればいいのかな?
これは実は、教育制度の設計というかなり大きなパズルなんだ。だが冷静に分解すると、仕組みは意外とシンプルだ。教育カリキュラムが変わるときには、だいたい 三つのレバーしか動かない。
ひとつ目は、国家レベルのカリキュラム変更。 日本の学校教育はかなり中央集権的で、科目の骨格は 文部科学省の学習指導要領で決まる。ここに例えば
・金融リテラシー
・ビジネス基礎
・契約と法
・会計の初歩
といった内容を入れる必要がある。これは実際、完全にゼロではない。高校では最近「資産形成」や「契約」の内容が少し入ってきた。だがまだ“おまけ”に近い。ここを一つの 教科として格上げする必要がある。 ただし、ここで巨大な問題が出る。 学校の時間割はすでに満杯なんだ。
数学
英語
国語
理科
社会
この五科目は簡単に削れない。だから新しい科目を入れるなら、どこかを削る必要がある。教育改革は、実はここでいつも止まる。科目の入れ替えは政治闘争になる。
二つ目は、大学入試。 日本の教育を動かす最大のエンジンは、実は文科省ではない。大学入試だ。入試に出ない科目は、どうしても軽く扱われる。 もし共通テストに
・経済の基礎
・企業の仕組み
・金融の仕組み
が入れば、高校はすぐに教え始める。教育制度というものは、驚くほど入試に従う。
三つ目は、教師。 仮にカリキュラムを作っても、教える人がいないと機能しない。今の社会科教師は 歴史 政治 地理 が専門であることが多い。会計や企業経営を教える訓練を受けていない。だから本格的に導入するなら、教員養成から変えないといけない。 制度改革はここまで来てようやく現実になる。
ここで少し想像してみよう。もし中学生から段階的に学ばせるなら、カリキュラムはこんな感じになるだろう。 中学生では、社会の仕組みの直感を育てる。 例えば
お店はどうやって利益を出すのか
会社はなぜ存在するのか
銀行はなぜ利息を取るのか
税金は何に使われるのか
要するに「経済の物語」を学ぶ段階だ。
高校ではもう少し構造を学ぶ。
需要と供給
企業会計の基本
資金繰り
契約
知的財産
ここまで来ると、社会の動作原理が見えてくる。
大学では、より高度な内容になる。
企業戦略
財務分析
産業構造
マクロ経済
これはかなり中小企業診断士の範囲に近い。
ここでちょっと面白い観察を置く。 世界を見ると、この方向にかなり近い教育をしている国がある。 それはフィンランドだ。学校で「現実世界の問題」を扱う授業がある。例えば 税金 ビジネス 社会保障 を実際のケースで学ぶ。 逆に日本は、かなり「抽象教育」寄りだ。理論は強いが、社会の動作原理を教える授業は弱い。
ただ、教育制度の歴史を眺めると一つの法則がある。 教育はいつも 社会の構造に遅れて変わる。
農業社会 → 読み書き算盤
工業社会 → 理科・工学
そして今は 金融資本主義 情報社会
この社会では
金融
データ
法
経営
が基礎リテラシーになりつつある。 だから、キミが感じている違和感はかなり未来志向なんだ。もし教育制度を本当にゼロから設計するなら、たぶんこういう三つの柱になる。
思考の道具 (論理・数学・科学)
社会の構造 (経済・法・政治・企業)
人間の理解 (歴史・文化・哲学)
面白いことに、中小企業診断士の科目はこの「社会の構造」をほぼ全部カバーしている。だから勉強している人は、社会の設計図を初めて手に入れたような感覚になる。 そしてここから、もう一段深い問いが出てくる。 もし本当にその教育改革をやるなら、実際には 誰がそれを推進するのか。官僚なのか、政治家なのか、それとも社会の別の勢力なのか。教育制度は理念だけでは動かず、必ず政治と権力の問題にぶつかるからだ。
いや、どの科目を削るか?という議論は極端すぎると思うよ?数学の一部を削ったり、理科の一部を削ったり、英語の一部を削ればいいんだよ。ベクトルの概念を知っててもいい けど、ベクトルの大学入試の問題が解けないとその先生きていけない!なんてことないじゃない?複素数だって何だってそうだよ。英語だって、あんなに勉強しても喋れない人が 多いんだから、今の勉強を削って、リスニングやスピーキングを増やせばいいんだよ。そうじゃない?
かなり鋭い指摘だ。実は教育研究者の中にも、ほぼ同じことを言う人は多い。学校の科目は「科目そのもの」が問題というより、どこまで深くやるかが問題なんだ。
少し冷静に眺めると、日本の学校教育は長い間こういう設計で動いてきた。
「上位5%の学生が大学入試を突破できるレベルまで全員を引き上げる」
この設計だと、どうしてもカリキュラムが深くなる。ベクトル、複素数、難解な英文読解。これは研究者やエンジニアになる人には必要だが、社会全体に必須というわけではない 。
ところが現実には、大学進学率はもう約60%になっている。つまり教育制度はまだ「エリート教育」の設計なのに、対象は「大衆教育」になっている。このミスマッチが起きて いる。
だからキミの言う「深さを削る」という発想は、かなり合理的だ。 数学を例にすると、社会で本当に必要な数学は意外と違う。 必要度が高いのはむしろ
確率
統計
指数
金利計算
グラフの読み方
こっちなんだ。
住宅ローン
投資
保険
年金
すべて指数関数と確率で動いている。複素数よりよほど生活に直結している。
英語も同じ構造がある。日本の英語教育は長く
文法 長文読解 中心だった。
これは実は大学入試の英語なんだ。ところが社会で必要なのは
聞く 話す 短く書く の方だ。
だから最近は入試も少しずつ変わり始めている。
ここで教育制度の面白いクセが見えてくる。科目は削れないというより、深度を調整することが難しいんだ。理由は二つある。 ひとつは教師。教師は自分の専門分野を大事にする。数学教師は数学の深さを守ろうとするし、英語教師は英語を守ろうとする。これは人間として自然な反応だ。 もう一つは、大学入試。入試問題を作る人は、問題の難易度で学生を選抜しないといけない。するとどうしても内容が深くなる。ベクトルや複素数は、入試問題を作りやすいテー マなんだ。 つまり学校教育は、社会の必要よりも 選抜試験の都合で深くなりがちなんだ。
ここで少し思考実験をしてみよう。もし教育カリキュラムをゼロから設計するなら、数学はこう変わる可能性がある。
前半 論理 比例 確率 統計
後半 金融数学 データ分析 リスク
これはむしろ現代社会の数学に近い。銀行、保険会社、投資会社はほとんどこの数学で動いている。
英語も同じだ。今の教育時間の半分を
会話 議論 プレゼン
に使えば、話せる人はかなり増える可能性がある。 つまり、キミの言う「少しずつ削る」という発想はかなり現実的なんだ。教育改革というと大きな革命のように聞こえるが、実際は 深さを10%削る 別の内容を10%入れる このくらいの調整の積み重ねで変わる。
ここで一つ面白いことがある。世界中で教育改革が議論されると、必ず出てくる言葉がある。
「21世紀スキル」
この中身はだいたい
データ理解
金融理解
コミュニケーション
問題解決
だ。 つまり、キミが言っている「ビジネスやマネー教育」は、実はかなり世界的な流れの中にある発想なんだ。学校教育はまだ完全には追いついていないが、ゆっくり方向はそち らに向かっている。
そして少し皮肉なことを言うと、中小企業診断士の勉強をしている人は、普通の学校教育では触れなかった「社会の動作原理」を後から一気に学んでいる。だから多くの人が同じ 感覚を持つ。「これはもっと早く知るべきだった」と。社会の仕組みを理解するための地図を、やっと手に入れたような感覚になるからだ。
学校教育に実学の要素をもっと増やそう!ということを声高に唱える政治家が、なんで登場しないのかな?
いるにはいる。でも、声高に一本槍で言い続ける政治家が育ちにくい構造がある。ここがミソだ。
まず事実として、日本の政策文書には「金融教育」「キャリア教育」の文言はすでに入っている。文科省の学習指導要領改訂のポイントでも、キャリア教育の充実が明記されてい るし、近年の党の政策集でも金融教育の充実は掲げられている。つまり、完全に誰も言っていないわけではない。? 文部科学省、ほかに 2 件
ただ、なぜそれが「大看板」にならないのか。理由は主に5つある。
第一に、票になりにくい。
有権者の多くは教育改革に関心はあっても、選挙で最優先にするのはたいてい物価、年金、税、景気、安全保障だ。 「中学生に簿記の初歩を」「高校で契約法の基礎を」みたいな話は重要だが、選挙戦のど真ん中では弱い。地味なんだ。民主政治はしばしば、重要だが地味なものを後回しにする 。実に人間くさい。
第二に、敵を一気に増やしやすい。
実学を増やすと言うと、すぐに 「では何を減らすのか」 「受験科目はどうするのか」 「教員養成はどうするのか」 「普通科と専門学科の境界はどうするのか」 という反撃が来る。 数学界、英語教育界、大学、教員団体、受験産業、それぞれに利害がある。改革派の政治家からすると、得られる票より失う支持の方が見えやすい。これ、政治の嫌なリアリズム だ。
第三に、すでに“少しずつやっている”ので争点化しにくい。
文科省側は、いきなり「ビジネス教育を新設」ではなく、既存科目の中にキャリア教育やデータ活用、契約や金融の要素を少しずつ埋め込むやり方を取ってきた。専門高校や高等 学校改革でも、地域産業や実務家教員との連携が意識されている。だから政治家が大演説で掲げるより、役所は静かに薄く入れる方向に流れやすい。? 文部科学省、ほかに 2 件
第四に、教育界の“正統教養”観がまだ強い。
大学や教育行政の中核には、今も「教養はまず抽象的・普遍的なもの」という感覚がある。これは完全に間違いではない。だがその結果、会計・金融・契約・起業のような分野は 「必要だけど、あまり前に出しすぎると教育が実利一辺倒になる」という警戒を招く。 要するに、政治家が強く言うと「教育の市場化だ」「人間形成を軽視している」と叩かれやすい。
第五に、本気でやると受験制度まで壊さないといけない。
ここがいちばん大きい。 学校を変える鍵は、実は政治家の演説より大学入試だ。共通テストや個別試験が変わらない限り、現場は受験対応を優先する。だから政治家が本気で実学を増やそうとすると、 「入試科目に金融・法・データ・経営をどう入れるか」 という怪獣級の論点に突っ込むことになる。みんな口では賛成しやすいが、そこで急に足が止まる。? 文部科学省、ほかに 1 件
つまり結論はこうだ。 政治家がいないというより、いても“補助線”としてしか語れない。主戦場にすると面倒が大きすぎる。
さらに言うと、実学教育は右左どちらの専売特許にもなりにくい。 保守は「勤労観・自立・職業観」から語れるし、リベラルは「金融弱者を減らす・消費者保護・シティズンシップ教育」から語れる。みんな少しずつ言える。だから逆に、誰か一 人の政治的ブランドになりにくい。これはなかなか皮肉だ。
キミの感覚で言い換えると、こうなる。 このテーマは重要なのに、選挙に効くほど単純ではなく、改革に必要な手術は大きい。だから政治家は「少し言う」が「命がけでは言わない」。
本当に動かすなら、政治家一人の絶叫より、次の三つが揃う必要がある。
1.保護者と企業側が「これは必要だ」と強く言う
2.大学入試が変わる
3.教員養成と教材が整う
この三つが揃うと、政治家は急に「前から私も言っていました」と乗ってくる。政治とはそういう生き物だ。少しずるいが、だいたいそう動く。 掘るなら次は、「じゃあ日本で最初に通りやすい実学教育の改革案は何か」を、かなり具体的に設計できる。
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改革案、どういうものか教えてくれる?
いいね、その問いは「制度設計」の領域だ。頭の体操としてかなり面白い。教育改革は巨大な話に見えるが、現実に通る改革はたいてい小さくて具体的だ。巨大な理想より、まず 「これなら通る」という設計を作る。
仮に現実的な改革案を作るなら、たぶん次の三段階になる。
まず第一段階。 科目を新設しない。
ここが重要だ。日本の教育改革が止まる最大の理由は「新しい科目を作る」からだ。科目を作ると、教師の免許、時間割、入試科目、全部が動く。政治闘争になる。
だから現実的な方法は、既存科目の中に埋め込むことだ。
例えば数学。 今の数学の中にすでに
指数 対数 確率 統計 がある。
ここに 金利 ローン 投資 リスク の例題を入れるだけで、金融教育になる。
例えばこんな問題だ。 100万円を年3%で運用すると 20年後はいくらか。 住宅ローン3000万円 金利1%と2%の差は総返済額でいくら違うか。 これは数学の授業で完全に扱える。
次に社会科。 社会科には 公民 政治 経済 がある。ここに 会社とは何か 株式とは何か 税金の仕組み 契約の基本 を入れる。
例えば中学生ならこんなテーマ。
コンビニの売上構造
会社の利益
銀行の役割
年金制度
これはもう中小企業診断士の超入門版だ。
第二段階。 高校に「社会システム演習」を入れる。 これは1学期だけの授業でもいい。名前は何でもいい。 テーマは例えば
会社を作る
商品を作る
資金調達
税金
利益計算
学生が仮想企業を作る。 売上 コスト 利益 資金繰り を体験する。 これは世界ではかなり成功している方法で、ミニ起業プログラムと呼ばれる。実際の企業家教育では定番だ。
第三段階。 ここが一番効く。
共通テストに金融リテラシー問題を1問入れる。
これだけで高校は一気に教え始める。
問題はこんな感じになる。
・インフレと金利
・ローンの返済
・投資のリスク
・税率
難しい必要はない。むしろ生活に近い方がいい。 日本の教育は入試が変わると、驚くほど早く動く。
ここまでなら政治的にもかなり通りやすい。理由はシンプルだ。
科目は増えない
教師もそのまま
予算もほぼ不要
つまり既存制度を壊さない。 教育改革で成功するパターンは、だいたいこれだ。制度を壊さず、中身だけ変える。
ここで少し未来の話をする。 もし本気でやるなら、もう一つ入れるべき科目がある。
データリテラシー
現代社会の実学は三つの柱になりつつある。
金融
法
データ
この三つが分かると、社会の構造がかなり見える。 面白いことに、中小企業診断士の勉強はこのうち 経営 金融 法 データ のかなりの部分を触っている。だから勉強している人は、社会の設計図を手に入れた感覚になる。
最後に少し哲学っぽい話を置く。 教育というのはいつも次の問いにぶつかる。 「人間が社会で自由に生きるために、最低限何を知るべきか」 昔は 読み書き 算盤 だった。 20世紀は 科学 数学 だった。 21世紀はおそらく
金融
データ
法
になる。 だから、キミが感じている違和感は、かなり時代の変化の核心に触れている。 そしてここで、もう一つ面白い問いが出てくる。もし日本の教育を本当に改革するとしたら、最初に味方につけるべき社会勢力は誰か。実はここが政治の一番面白い部分なんだ。
学校の勉強が実学中心になればさ、高校出て、すぐに社会に出ても社会人として十分通用するとか、高校プラス専門学校や短大に通うだけで、十分に社会人スキルを身につけられ る若者が増えるかもしれないじゃない?そしたら、家庭の教育費はドーンと減らせるはずだよね?
その発想、かなり筋が通っている。教育制度を社会の「費用構造」として見ると、キミの言っていることは経済学的にも意味がある。
まず現状を少し冷静に見てみよう。日本では大学進学率はすでに6割前後になっている。多くの若者が18歳から22歳までを大学で過ごす。ところが企業側の本音を聞くと、こ んな声がよく出る。
「大学で専門的な実務能力を学んでくる学生は多くない」
つまり企業は結局、入社後にかなりの教育をする。そうなると社会全体として
家庭 → 大学授業料 → 企業の新人研修
という二重教育コストが発生しているわけだ。
もし高校までの段階で 会計 契約 金融 データ ビジネスの基礎 をある程度理解している若者が増えれば、確かに大学に行かなくても働ける層は増える可能性がある。これは教育経済学でもよく議論されるテーマで、特にドイツ型の教育制度で 顕著だ。
例えば ドイツ には「デュアルシステム」と呼ばれる職業教育がある。高校段階から 企業での実習 職業学校 を組み合わせる制度だ。大学に行かなくても高度な技能職やビジネス職に就く道がある。その結果、大学進学率は日本やアメリカほど高くないが、若者の失業率はかなり低い。
つまり、教育の設計を変えれば
大学
↓
専門教育
↓
社会
というルートが強くなる可能性は確かにある。
ただ、ここで一つ面白い逆説が出てくる。日本の大学進学率が高い理由は、実は教育内容だけではない。雇用システムが強く関係している。
日本の企業は長い間「新卒一括採用」を中心にしてきた。多くの大企業が採用の入口として大学卒を条件にする。すると家庭としてはこう考える。
「とりあえず大学に行っておいた方が安全だ」
この心理が進学率を押し上げている。だから仮に高校教育を実学寄りにしても、企業の採用慣行が変わらなければ大学進学は減りにくい。
つまり問題は教育だけではなく、雇用制度とのセットなんだ。
もう一つ考えるポイントがある。大学には実務教育以外の役割もある。 人文 哲学 歴史 科学 こういう分野は直接の職業技能ではないが、社会の思考力を支える知識でもある。完全に職業教育だけに寄ると、この部分が弱くなる可能性もある。 教育制度はここでいつもバランスを取ろうとする。 「職業能力」と「教養」のバランスだ。
ただ、キミの問題提起の核心はかなり現実的だ。現代社会では教育費が非常に大きい。日本でも大学4年間で数百万円は普通にかかる。もし高校段階で社会の仕組みを理解す る教育が増えれば、確かに
大学進学を必須と思わない人
専門学校で十分と考える人
早く働き始める人
が増える可能性はある。結果として家庭の教育費は下がる。
教育制度はいつも社会の経済構造と一緒に変わる。農業社会では読み書き算盤、工業社会では理科と工学、そして今の社会では金融・データ・法律の理解が重要になりつつある。 だから実学教育を強めるという考え方は、決して奇抜な発想ではなく、むしろ社会の変化に対する自然な問いなんだ。
そしてここで、もう一歩踏み込んだ疑問が出てくる。もし日本で高校卒業だけでも社会で十分通用する人材を育てる教育制度を作るなら、それは教育改革だけで可能なのか、それ とも企業の採用制度まで変えないと動かないのか。教育制度と雇用制度は、実はかなり強く結びついているからだ。
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