内閣とは~??
日本の「内閣」について明確に「これが内閣だ!」とクッキリ説明することは若干の難しさが伴うように思う。というのも日本の政界においては伝統的に与党そのものの力が大きすぎて、閣僚のメンバーは「与党から選んでもらえた人たち」という性格が強く、「与党をけん引していく」という本来内閣が持つべき力を十二分に発揮できなかった時期が長かったのだ。
また、与党にしても内閣にしても、とにかく国会議員の力が官僚の力と比べて相対的に弱い(官僚の力が強すぎる)ということも、長らく言われ続けてきた。
そういう問題意識は政界の中にもあり、内閣の力を強めよう、という動きは続いてきた。ただ最近は「官邸主導」という言葉も多用されており、「内閣を強化する」ことと「官邸主導」、大きく言えば「政治主導」は若干混同されている気もする。今のところ私の考えは、これらの概念をキッチリ分けて整理するべき、というわけではなく、日本の政界はそれらを混然一体としたまま改革してきたのだから、そのないまぜの様相をそのまま説明すればいいのではないか、というものだ。
ところで若い人には、「内閣」と聞いて、あるいは公民の教科書に「内閣」と書いてあるのを見てもピンとこない人もいるのではないだろうか?こんな数人~10数人の大臣で行政の仕事が勤まるのか?と(最近の賢い若者はそんなところで疑問を持たないかもしれないが・・・)。
もちろん閣僚のメンバーは政界の代表的な意味合いが強く、その下には巨大な官僚組織が控えていて、そこに属している官僚たちが実際の行政事務を執り行っているのだ。例えば経済産業大臣の下には経済産業省があり、大臣は省の顔役であるにすぎない(だからこそ、省庁業務にさほど通じていない大臣が就任してしまうと、国会答弁の下手さを突っ込まれることになり、これが内閣の弱さにつながってしまうのだが・・・)。
だから私は、「内閣」はいっそのこと「中央省庁」と言い換えた方がいいんじゃないか?と思ったこともあるが、それだと内閣を強化することが政治主導にはつながらなくなってしまう。中央省庁を強くするということは強い官僚をさらに強くするだけだから、これからやりたい改革と逆行してしまう。だから内閣はあくまでも政界の顔役であり、行政のトップと解するべきなのだろう。
中曽根~小泉~安倍の内閣主導体制
内閣主導的な体制は、例えば中曽根内閣(1982~1987年)から少しずつ始まっている。首相の私的諮問機関である第2次臨時行政調査会がそれだ。中曽根は元来、首相の力を強めたい、大統領に近いものにしたい、という願望を抱いていたと言われる。日本の議院内閣制の仕組みの下で、首相を頂点とするトップダウンの仕組みを少しでも実現するために、中曽根は目玉政策を力強く推進するための諮問機関を作ったのだ。この体制の下で、日本国有鉄道、日本電信電話公社、日本たばこ産業の三公社民営化が進められた。ただ、花形の政策を臨調が取り上げてしまうので、当時の各省庁の幹部は面白くない思いをした、というウワサも漏れ伝わる。
そして森政権下の2001年1月の中央省庁再編において、総理府、経済企画庁、沖縄開発庁を統合する形で、内閣府が設置された。さらに内閣府の中には経済財政諮問会議が設置され、小泉政権下ではこれが十二分に活用されていくことになる。小泉内閣以降の予算編成では、8月の概算要求に先立って経済財政諮問会議が経済成長率などのデータを検討したうえで「骨太の方針」を閣議決定し、予算の全体像をまず明らかにした。「骨太の方針」を踏まえて財務省が各府省の概算要求を査定する流れとなった。従来のような復活折衝は行われず、閣議決定が先行しているため与党幹部の影響力も限定的となり、予算編成への官邸の影響力が強まった。
さらに安倍政権下の2014年において、内閣官房内に内閣人事局が設置された。省庁幹部職員の候補者名簿や、選考基準の作成が、内閣人事局の事務となった。従来、各省大臣には実質的な人事権はなく、幹部人事については、事務方トップの事務次官が作成する人事案を承認するしかなかった。これを、内閣人事局が、民間からもリストアップした候補者名簿を担当大臣に提出できるようにし、事務次官の人事案に縛られないようにした。
(以上、ウィキペディア、コトバンクより多くを参照)
参照文献: