天皇

天皇は政治に興味を持つ者にとっても、最も論ずるのが難しいテーマの一つかもしれない。ある人にとっては日本で一番偉い人として、当たり前のように尊崇の対象であるだろう。一方で終戦直後の左翼全盛の時代には、「天皇中心の軍部が国民を戦争に巻き込んだ」と考え、天皇を軽んじる論者も多かったという。

慎重を要する・・・とは思うが、最近では割と気さくな文体で天皇について論じる歴史評論家も増えているようだ。プロの学者、評論家でもない自分がそのマネをできるものでもないだろうが、話題性のあるポイントをかいつまんで、天皇家の歴史を紹介していきたい。

スポンサーリンク

神話時代

天皇の本当の起源はどこか?となるとプロの学者さんの間でも結論は出ないようだ。日本の一番古い古典、「古事記」、「日本書紀」をひたすら研究するしかないようである。
古事記に載っている神話からすると、日本の起源、天皇の起源は以下のようなストーリーである。
イザナギノミコトとイザナミノミコトという二柱の神が、混とんとした下界を大きな鉾でかき混ぜ日本の元となる大きな八つの島を作った。これが大八島(本州、九州、四国、淡路島、壱岐、対馬、隠岐、佐渡)である。そして次にイザナギとイザナミはセックスをして多くの神々を生み出した。このイザナギの娘が太陽の女神とされ、天皇家の祖先でもある天照大神(アマテラスオオミカミ)である。
ただしアマテラスオオミカミはあくまでもイザナギの娘であり(イザナギが左の目を洗ったときに生まれた)、イザナミは黄泉の国に落ちてしまったので、アマテラスの出産には関係してないとのことだ。
ただしアマテラスは最初は高天原に住んでいて、この国(大八島)は先住民族の王であるオオクニヌシが治めていた。アマテラスがこの国に目をつけてオオクニヌシに使いをやり、孫のためにこの国を譲ってくれるよう要請して、オオクニヌシから国が譲られることとなった。
アマテラスの孫のニニギノミコトはアマテラスの命を受けて地上の高千穂に降り立った。ニニギノミコトとコノハナノサクヤビメの間に生まれた子が海幸彦と山幸彦。山幸彦とトヨタマビメノミコトの間にウカヤフキアエズノミコトが生まれた。ウカヤフキアエズノミコトとタマヨリビメの間に生まれた4柱の御子の末っ子がカムヤマトイワレビコノミコト、すなわち後の神武天皇である。
九州の高千穂にいた神武天皇だが、あるとき「東の美しい土地に移住すべきだ」と宣言し、神武東征を開始する。途中の河内国でナガスネヒコを苦戦の末に打ち破り、大和の国に到達し、スメラミコトに即位した。
しかし、この後の第二代の綏靖天皇から第九代の開化天皇まで、歴史書には何をやったかまるで書かれていないとのことである。そこで通説ではこの8人の天皇は欠史八代(何をしたか全くわからず、存在すらも不明確な8人の天皇)と呼ばれる。

継体天皇

古代にいきなりミステリーが登場する。26代の継体天皇であるが、本名を男大迹(オオド)といい、応神天皇五世の孫だという。武烈天皇の姉(妹説もある)多白香皇女を皇后とした。天皇5世の孫というのはいかにも血が薄いということで、どこの馬の骨か分からない人物を天皇に据えて、あとから「誰それの子孫」という説明を付け足したのではないかという疑義が出ているようだ。ただし皇后は先代の天皇の姉(または妹)なのであり、(一時的な)女系の形にせよ、皇統を守ったということになる。もちろんこういう言い方は大変不遜な言い方になるかもしれない。応神天皇の子孫なので男系で結ばれていると納得している論者もそれなりにいるようだ。

天智天皇と天武天皇 ~ 持統天皇

蘇我氏は大伴氏など古代からの名族を次々に没落させ、最後に残った物部氏も当主の守屋を殺すことで圧倒し、聖徳太子から天智天皇の時代にかけて天皇家に唯一対抗しうる存在としてのし上がってきた。
崇峻天皇は蘇我馬子に操られそうになるのに嫌気がさし、馬子を殺してやりたいと考えたが、危険を察知した馬子の方が先手を打って天皇を暗殺してしまった。
舒明天皇の時代は遣唐使を派遣するなどして、社会は静かに発展するかに見えたが、蘇我氏は天皇陵以上の大きさの古墳を自らの一族のために作るなど、専横を極めつつあった。
皇極天皇の息子の中大兄皇子は蘇我入鹿を倒す覚悟を決め、中臣鎌足と協力して、朝鮮半島からの使者を迎え入れる儀式のリハーサルをセッティングし、そこに入鹿を招き寄せ、油断のすきをついて惨殺した。大化の改新である。
中大兄皇子は朝鮮半島への進出の意欲を見せる唐への対抗心を燃やし、朝鮮半島に出兵した。しかし日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗した。白村江の戦い(663年)である。
唐の脅威を明確に感じ取った中大兄皇子は、日本各地に城を築き防人を配備し、防衛態勢を整えた上で即位した。天智天皇である。
天智天皇の治世はわずか3年にすぎなかった。天智は病死し息子の大友皇子が跡を継いだが、息子はすぐに即位しようとはしなかった。一方、天智の弟である大海人皇子は天智病死の翌年に、天智政治への不満を持つ人々を集めて挙兵し、大友皇子との間で大戦争が起こった。これが壬申の乱(672年)で古代最大の内乱と言われる。大海人皇子が勝利し、大友皇子は自殺した。そして大海人は即位し天武天皇となった。
天武天皇の跡を継いだ持統天皇は歴代天皇の中でもかなりの英傑という説がある。持統天皇は天皇史上初めて大仰な古墳を作るのを止めさせ、自らの死後の死体の火葬を許可したというのである。死がケガレと見なされた日本では、天皇が崩御しようものなら、首都を移転せねばならなかった。その習慣にも終止符を打った。それで日本社会の安定成長の基礎を作ったというのである。

称徳天皇

持統天皇と天武天皇の間に生まれた子が草壁皇子、草壁皇子の子が文武天皇でさらにその子供が大仏で有名な聖武天皇である。聖武天皇の次は称徳天皇という。
ときは藤原氏の絶頂期だ。聖武天皇の妃は光明皇后と言い、藤原不比等の娘だった。藤原氏は娘を天皇の妃にして政治の実権を握るという手法をこの後も続けていくことになる。聖武天皇はしかも気弱なタイプで、ほとんど光明皇后の言いなりだったらしい。
この夫婦の娘が称徳天皇だが、スキャンダラスな話題が残っている。ブレーン的存在だった弓削道鏡と昵懇の仲だったというのである。道教は体調不良に悩まされていた称徳天皇の部屋に入り個室マッサージのようなことをしていたらしい。道教は称徳天皇の情夫だろう、というまことしやかな噂が立った。称徳天皇と道鏡の仲は極めて緊密であり、とうとう称徳天皇は道鏡に天皇の位を譲ると言い出したらしい。しかし和気清麻呂という男が「この国は天皇家の子孫だけが統治できる」という神託を受けたことにより、その計画は潰えてしまったという。彼女は独身のままこの世を去り、天武王朝は

断絶した。

桓武天皇~嵯峨天皇

称徳天皇が後継者を定めずに世を去ったため、これまで音沙汰のなかった天智系の皇族にお鉢が回ってきた。光仁天皇である。光仁天皇の息子が桓武天皇だ。桓武天皇は平城京から長岡京、さらには平安京への遷都を実行した。桓武天皇は東北地方の蝦夷制裁の戦果を挙げ、征夷大将軍として坂上田村麻呂を任命した。また桓武天皇は唐で学んだ最澄を厚遇した。

桓武天皇の息子の平城天皇が薬子の変で失脚すると、その弟の嵯峨天皇が跡を継いだ。嵯峨天皇は兄の平城とは違って身体壮健、明朗活発で社交的なタイプだった。何人もの女性を愛し、子女は50人に及んだと伝えられている。しかし子供が多すぎると全員を親王、内親王にするわけにもいかない。そこで母親の身分の低い子供に対しては、姓を持たない天皇家から姓を持った分家のような形で独立してもらうということを考えた。このときに源姓が作られた。これを臣籍降下という。

嵯峨天皇は空海を厚遇した。検非違使を設置したのも嵯峨天皇である。

白河上皇~崇徳天皇

時代は下って72代白河天皇であるが、息子が8歳のときに堀川天皇として即位させ、自らは白河上皇を名乗った。これには、藤原家が摂政・関白の地位を独占し政治を左右しようとするのをけん制し、自らが天皇家を監督する立場に立とうとの意図があったと言われる。白河はさらに堀川の息子を5歳の時に鳥羽天皇として即位させ、さらに上皇として監督を続けた。これを院政という。白河はさらに、鳥羽の息子を崇徳天皇として即位させるよう強要した。上皇が二人いる異常事態となり、鳥羽は新院、白河は本院と呼ばれた。ここでスキャンダラスな話題が伝えられている。崇徳天皇は鳥羽天皇の実子ではなく、白河が鳥羽の皇后と不倫関係に陥って産ませた子だというのだ。この話はウワサに過ぎないともいえるが、鳥羽は長男であるはずの崇徳天皇に対して極めて冷淡だったこともあり、当時から不倫は実話だと信じられていたそうである。

後白河天皇

鳥羽上皇は崇徳天皇を無視して、自らの子である近衛天皇、後白河天皇を次々に即位させた。崇徳天皇は、自らの子に皇位を継がせるチャンスがない。いわれのない不義理を受けているとストレスを募らせた崇徳天皇と後白河天皇との間についに戦争が起きた。保元の乱(1156)である。後白河が勝利し、崇徳は隠岐に流罪となった。崇徳天皇は隠岐で、写経を鳥羽上皇の墓所に納めようと書き送ったが、これは後白河上皇に拒否され送り返されてしまった。この仕打ちに怒った崇徳天皇は生きながら天狗の姿になったという。
鳥羽上皇のお気に入りの武士として平忠盛がおり、息子の平清盛も鳥羽上皇の息子の後白河天皇に味方した。それが勝利につながったようだ。
しかし後白河天皇は戦に勝ったにも関わらず加勢してくれた武士を軽んじるような態度を見せ、結局は平氏が政権を作り、後には源氏が鎌倉幕府を開いてしまう。このときに天皇家は政治の実権を失ったのである。

後鳥羽上皇

後鳥羽天皇は息子を土御門天皇として即位させ、自らは後鳥羽上皇を名乗って院政を開始した。
ときは鎌倉政権だったが、三代将軍源実朝が暗殺され、出自不明な北条氏が実権を握っていた。武家政権を由々しく思っていた朝廷は、幕府の統制が揺らいだこの時期こそが討幕の機会と見た。後鳥羽上皇は執権北条義時の討伐を命ずる院宣を発し、自ら挙兵した。上皇の挙兵で幕府の御家人たちに衝撃が走ったが、北条政子が大演説を打って頼朝のご恩を説き、鎌倉武士を結集させた。結局、戦力の差は歴然としており、北条泰時は京都周辺で思いのままに闘い、勝利を収めた。これが承久の乱(1221年)である。破れた後鳥羽上皇は隠岐に島流しとなった。
天皇2へ続く

参照、引用元:
「日本一やさしい天皇の講座」倉山満 扶桑社新書

「天皇の日本史」井沢元彦 角川文庫

「天皇の国史」竹田恒泰 PHP

コメント

タイトルとURLをコピーしました