衆院選で国民民主党が、なんで伸び悩んだんだろう?
国民民主党が衆院選で伸び悩んだ理由は、単一の失策というより、構造的な「噛み合わなさ」が重なった結果に見える。政治は物理学と似ていて、力が弱くても向きが合えば物は 動くし、力があってもベクトルが散ると前に進まない。
まず立ち位置の問題。
国民民主は「現実路線の改革中道」を掲げているけれど、日本の選挙ではこのゾーンが一番説明コストが高い。自民には「安定」という強力なブランドがあり、立憲には「反自民 」という分かりやすい物語がある。その間に立つ国民民主は、「どちらでもないが、どちらよりも合理的」という主張を、毎回きちんと理解してもらわないと票にならない。短期 決戦の衆院選では、これは不利に働きやすい。
次に争点設定。
賃上げ、エネルギー、財政規律と成長の両立など、言っていることはかなり筋がいい。でも有権者の記憶に残る“一撃必殺の争点”が弱かった。「国民民主といえばこれ」という 看板政策が、支持層以外には浸透しきらなかった。政策の質と、政治的記号性は別物、という残酷な現実だ。
三つ目は候補者と組織。
地方ではまだまだ候補者数と地盤が足りない。比例で一定の支持は取れても、小選挙区で勝ち切れない構造が続く。労組基盤も、かつてのような動員力は期待しにくく、空中戦( メディア・SNS)でも他党に埋もれやすい。
最後に「物語」の欠如。
国民民主は失政が少ない代わりに、劇的でもない。政治的には美徳だが、選挙ではドラマがないと人は動きにくい。維新の「改革者」、れいわの「反緊縮」、立憲の「対抗軸」に 比べて、国民民主は「正論の党」で止まってしまった印象がある。
要するに、
・立ち位置が中庸すぎて伝達コストが高い
・看板争点が弱い
・小選挙区で勝つ体力が足りない
・感情を動かす物語が不足していた
この党は、政策の中身だけ見れば過小評価されている。でも選挙は答案の点数ではなく、物語と記号の競技でもある。国民民主が今後伸びるかどうかは、「正しいことを言う党」 から「この国をこう変える党」へ、物語を一段上に引き上げられるかにかかっている。政治の世界は、合理性だけでは回らないという、やや皮肉な実験場だ。
あった。しかも「無茶ではないのに、物語を作れる政策」はいくつか考えられる。国民民主に足りなかったのは知恵ではなく、物語の焦点距離だと思う。
一つ目は「手取りを増やす」を、本気で国家プロジェクト化すること。
賃上げ要請や最低賃金の話にとどめず、「社会保険料と税の合算負担を〇年で〇%下げる」と期限と数値を切る。財源は給付の整理と成長で賄う、と逃げずに設計図を出す。これ は中道ど真ん中だが、物語としては強い。主人公は働く人、敵役は“見えない負担”。選挙は勧善懲悪があると分かりやすい。
二つ目は「現役世代救済の社会保障再設計」。
高齢者切り捨てではない、と前置きした上で、世代間の負担配分を可視化する。たとえば後期高齢者医療の自己負担や給付の微調整と、子育て・教育の現金給付をセットで語る。 これは必ず批判を浴びるが、だからこそドラマになる。誰も触りたがらないテーマに、合理主義の党が踏み込む姿は、党のキャラとも合う。
三つ目はエネルギーと産業の一体改革。
「脱炭素は成長産業にする」と腹をくくり、原発の現実的活用、再エネの国産化、電力市場改革をパッケージで打ち出す。エネルギー安全保障と雇用創出を結びつけると、これは かなり太い物語になる。理想論ではなく“国を回す話”になるからだ。
四つ目は「政治のコスト改革」。
国会議員定数や文書通信費、補助金の棚卸しを徹底し、「まず自分たちの身を切る」を徹底的に演出する。金額自体は国家予算から見れば小さいが、象徴性は抜群。これはドラマ の序章として効く。
ここで重要なのは、政策そのものより語り方だ。 国民民主は「全部ちょっとずつ正しい」を並べがちだった。でもドラマは一本の太い軸が必要だ。本来なら、
「働く人を主役に、国の仕組みを現実的に組み替える党」
この一文に、すべての政策を従属させればよかった。理性の党が感情を捨てる必要はない。感情に、理性を住まわせればいい。政治は論文ではなく、長編小説に近い。章立てを誤 ると、名文でも読まれない。
社会保険料をどうやって下げるんだろう?社会保障改革を言い過ぎても、維新と被るんじゃないの?
いいところを突いている。社会保険料を下げる話は、雑にやると即「維新コピー」になるし、下手をすると「福祉切り捨て政党」という烙印も押される。だから鍵はやり方と物語 の差別化にある。
まず前提をはっきりさせよう。 社会保険料が高い理由は、誰かがサボっているからではない。高齢化で医療・介護の利用量が増え、制度が「出来た当時の人口構造」のまま走り続けているからだ。ここを誤解す ると議論が壊れる。
では、どうやって下げるのか。乱暴な削減ではない。
第一に「給付の量」ではなく「流れ」を変える。
医療・介護は出来高払いが多く、使えば使うほどお金が出ていく構造になっている。ここを、慢性疾患や介護については包括払い(定額払い)に寄せる。提供側が“量”ではなく “成果”で評価される仕組みにする。海外では珍しくない手法で、日本でも部分的に実績がある。
第二に「年齢」ではなく「能力」で線を引く。
一律に高齢者優遇・現役冷遇になっている部分を、資産や所得をより厳密に反映させる。元気で資産のある高齢者には、自己負担を少し厚くお願いする。その分を現役世代の保険 料軽減に回す。これは世代対立を煽る話ではなく、同世代内の再配分だ。
第三に「予防」を制度の中心に据える。
要介護や重症化を減らせば、長期的に保険料は下がる。健康診断や生活改善にインセンティブを付け、自治体や企業が本気で予防に取り組むと、数年スパンで医療費の伸びは抑え られる。地味だが、確実に効く。
第四に税と保険料の役割分担を整理する。
少子化対策や子育て支援まで保険料に載せているのは、制度として歪んでいる。子どもは社会全体の公共財だから、ここは税で賄う。その分、保険料を軽くする。これは「削減」 ではなく「仕分け直し」だ。
ここで、維新との違いがはっきりする。
維新は「コストを切る」「無駄を削る」という改革美学が前に出る。対して国民民主が取り得た道は、「制度を作り替えて、負担の正体を変える」ことだった。削るか、組み替え るか。この差は大きい。
つまり、 維新=筋トレ型改革(痛いが分かりやすい) 国民民主=代謝改善型改革(地味だが持続する)
ドラマ性は、痛みの演出だけから生まれるわけじゃない。「この仕組み、もう時代遅れだよね?」と国民全体が腑に落ちる瞬間にも生まれる。合理主義の党が、感情論に寄らずに “納得のカタルシス”を作れるかどうか。そこに、まだ使われていない伸び代がある。
仕組み自体は、思っているよりずっと地味で、だからこそ効く。医療制度の世界では「魔法」ではなく「配管工事」に近い。
まず、今の出来高払いを整理する。
日本の医療は原則として、診察、検査、投薬、処置をやるたびに点数が積み上がる方式だ。医師が真面目に診れば診るほど、病院の収入は増える。これは急性期、つまり骨折や肺 炎のような「一回で治す医療」には向いている。でも糖尿病、高血圧、心不全、認知症、要介護状態のような「長く付き合う病気」には相性が悪い。量が増えがちだからだ。
そこで出てくるのが包括払い。
これは「この人を、この状態で、この期間、診るなら、あらかじめこの金額」という支払い方だ。たとえば糖尿病で重症化していない人なら、月いくら。要介護2なら、在宅ケア で月いくら、という具合に、患者単位・状態単位で定額を決める。検査を何回やろうが、薬をどう組み合わせようが、基本額は変わらない。
ここで何が起きるか。
医療機関の関心が「どれだけやったか」から「悪化させないこと」に移る。余計な検査や重複投薬を減らし、生活指導や服薬管理に力を入れる方が合理的になる。患者が入院した り、要介護度が上がると、むしろ赤字になるからだ。
もちろん、放っておくと怖い副作用もある。
「手抜き医療」だ。だから包括払いは必ず、質の管理とセットになる。重症化率、再入院率、合併症の発生率などをモニタリングし、基準を下回ると減額、上回ると加算する。成 果報酬の要素を混ぜるわけだ。
介護でも同じ構造が使える。
今はサービスを出せば出すほど報酬が増える。これを、「自立度を維持・改善したら評価される」設計に変える。訪問回数を増やすより、転倒を防いだ方が報われる。方向性が逆 転する。
すでに日本でも完全な未開拓ではない。
急性期病院ではDPCという包括払いが動いているし、在宅医療や地域包括ケアでも部分的に定額化は進んでいる。ただし、慢性疾患や介護の中核までは踏み込めていない。政治 的に怖いからだ。
要点はここだ。
包括払いは「医療費を削る制度」ではない。「時間を味方につける制度」だ。今日の一回分を安くするのではなく、5年後、10年後に重くならないようにする。社会保険料を下 げる唯一の現実解は、給付を切ることではなく、悪化を減らすことにある。
派手さはない。でも、制度の設計思想としてはかなりドラマチックだ。医療の主役を「治療」から「維持」に移す。これは価値観の転換で、だから政治のテーマになり得る。制度 は物語を語らないが、設計思想は語れる。そこに、言葉を与えるのが政治の仕事だ。
予防を政策に落とし込むコツは、「健康に気をつけましょう」を一行で捨てることだ。道徳にすると失敗する。制度にすると動く。ここは心理学と経済学の合わせ技になる。
まず軸になる考え方。
人は健康になりたいから行動するのではない。損をしたくない、得をしたいから行動する。だから予防政策は啓発よりもインセンティブ設計が本体になる。
具体像を描こう。
一つ目は、保険料と予防を直接つなぐ。 健康診断の受診、生活習慣病の改善プログラムへの参加、服薬遵守などを条件に、翌年の社会保険料を数%下げる。逆に、受診すらしない場合は据え置き。罰ではなく、差をつけ る。これは民間保険では当たり前だが、公的保険ではほぼ未開拓だ。
二つ目は、企業を主役にする。
個人に「運動しろ」と言っても続かない。だから職場単位で評価する。社員の健診受診率や重症化率が改善した企業には、事業主負担の保険料を軽減する。健康経営がスローガン から、数字の世界に降りてくる。
三つ目は、かかりつけ医を「予防の司令塔」にする。
病気になったら行く場所ではなく、「悪くならないように管理する拠点」に役割を変える。慢性疾患の患者は原則、登録制にして、定期フォローを包括払いで評価する。医師が時 間をかけて生活指導をするほど、制度上は得になる設計だ。
四つ目は、自治体ごとの競争をつくる。
医療費の伸び、要介護化率、健診受診率を見える化し、成績の良い自治体には国が交付金で報いる。地方創生と医療費抑制を同時に狙える。役所はランキングがあると本気になる 、生物学的事実だ。
五つ目は、テクノロジーを遠慮なく使う。
ウェアラブルやアプリで歩数、睡眠、血圧を本人が管理し、一定基準を満たせばポイント付与や保険料軽減につなげる。監視社会になる? ならない。参加は任意、データは本人のもの、という原則を明確にすればいい。
ここで大事な線引きがある。
予防政策は「自己責任論」に見えた瞬間に死ぬ。だから必ず、「環境を整えるのは社会の責任」というフレーズを背骨にする。健康になれ、と命じない。健康になりやすい設計に する。
物語としてはこうだ。 病気と闘う国から、悪くならせない国へ。 医療費を削る国から、未来の負担を軽くする国へ。
これは維新の「削減」でも、福祉国家の「給付拡大」でもない。時間軸をずらした改革だ。派手な刀ではなく、静かな歯車。でも歯車が噛み合ったとき、国家は驚くほど軽やかに 回り始める。
結論から言うと、すでに一部は保険料から出ているし、今後はもっと明確に保険料に乗せる方向で動いている。ここが制度の“ねじれ”ポイントだ。
まず現在の姿。
日本の少子化対策・子育て支援の財源は、長い間ごちゃ混ぜだった。国の一般会計(税金)、地方負担、そして社会保険の仕組みを通じた間接的な負担が混在している。
分かりやすい例がいくつかある。
たとえば、出産育児一時金。
これは健康保険から支払われている。つまり、現役世代が払う医療保険料が原資だ。出産は病気ではないのに、医療保険で面倒を見ている。制度的にはかなり例外的だ。
次に、育児休業給付。
これは雇用保険から出ている。これも広い意味では社会保険料だ。会社と労働者が払った保険料で、子育て期間の所得補償をしている。
さらに最近の動きが重要だ。 少子化対策を「安定財源でやる」という名目で、医療保険料に上乗せする形の“子育て支援金”を創設するという発想が出てきた。理屈はこうだ。「子どもが増えないと、将来の 医療・年金制度がもたない。だから医療保険で支えるのは合理的だ」。
理屈は分かる。でも、構造としては歪む。
なぜなら、 社会保険料は本来、「リスクに備えるための保険」だ。 病気、失業、老後といった個人リスクを社会で分かち合う仕組みで、人口政策や家族政策のための税金代替装置ではない。
ここで問題が起きる。
・現役世代の手取りが減る
・負担の理由が見えにくい
・「いつの間にか保険料が上がっている」感覚が広がる
結果、少子化対策をやっているのに、若い世代が疲弊するという逆説が生まれる。
だから、さっきの話とつながる。 国民民主が打ち出せた“違い”は、ここだった。
子育て・少子化対策は税でやる。
医療・介護は保険料でやる。
この線引きを明確にするだけで、
・社会保険料は下げられる
・負担の意味が分かる
・世代間の納得感が増す
維新が「とにかく削る」なら、こちらは「役割を正す」。制度の美学が違う。
少子化は国家存亡の問題だ。でもそれを“こっそり保険料に紛れ込ませる”のは、制度設計としては三流だ。真正面から税で引き受ける。その覚悟を示せるかどうかが、改革中道 の踏み絵になる。
制度は嘘をつかない。ただし、黙っている。 だから政治が、どこからどこまでが誰の負担なのかを、言葉にしてあげる必要がある。そこに、ちゃんとしたドラマは生まれる。
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再エネの国産化、とはどういうこと?
「再エネの国産化」というのは、電気そのものを国内で作るという話ではない。そこはもう日本は相当やっている。本丸は別で、**装置・部材・運用ノウハウまで含めた“産業 としての内製化”**のことだ。
今の再エネは、エネルギー安全保障の顔をして、実は産業安全保障が弱い。
少し分解しよう。
まず現状。 太陽光パネル、風力タービン、蓄電池。これらの主要部材は、かなりの割合で海外製だ。特に太陽光は、中国依存が極端に高い。発電は国内でも、装置が止まったら交換部品が来 ない、価格を握られる、技術が国内に残らない。これは「エネルギーを輸入していないだけで、産業は輸入している」状態だ。
ここで言う国産化は三層構造になる。
第一層は、中核部材の国内生産。
たとえば、次世代型の太陽電池(ペロブスカイト型など)、洋上風力の大型ブレード、パワー半導体、蓄電池セル。全部を一気にやる必要はない。日本が得意な材料科学や精密加 工に寄せて、勝ち筋のある部分を押さえる。
第二層は、設計・施工・保守の国産化。
再エネは作って終わりではない。20年、30年、面倒を見る。設計標準、施工管理、点検、寿命予測。この“地味な知”を国内企業と人材に蓄積する。ここは雇用を生むし、海 外にも輸出できる。
第三層が重要で、電力システムとの統合技術。
再エネは不安定だ。だから蓄電池、需給調整、送電網制御が肝になる。ここはIT×電力の世界で、日本が巻き返せる余地が大きい。単なる発電ではなく、「揺れる電気を安定さ せる技術」を売り物にする。
なぜこれが政策としてドラマになるか。 再エネ国産化は、環境政策でもあり、産業政策でもあり、安全保障政策でもある。 「脱炭素=我慢」ではなく、 「脱炭素=新しい製造業」 という語りに変えられる。
原発との関係も、ここで整理できる。 再エネ国産化は「原発ゼロ」のスローガンではない。原発はベースロードとして現実的に使いながら、再エネを“外から買う電源”ではなく“内から育てる産業”に変える。その 現実主義が、中道改革の色になる。
要するに、 火力=燃料を輸入 再エネ(今)=装置を輸入 再エネ(国産化)=技術と雇用を国内に残す
この転換だ。
再エネ国産化は、発電量の話ではない。国家がどこで飯を食うかの話だ。エネルギー政策を、産業の空洞化と結びつけて語れたとき、これは単なる環境論争ではなく、ちゃんとし た国家戦略になる。 静かだけど、背骨の太いテーマだ。
電力市場改革って、すでにやってるんじゃないの?
やっている。間違いなく、もう十年以上やっている。 ただし正確に言うと、「入口の改革」は終わったけれど、「本丸」はまだ途中、という状態だ。電力市場改革は三幕物で、今は第二幕の途中あたりにいる。
まず、何をやったのか。
第一幕は「独占を壊す」。 かつての電力は、地域ごとに電力会社が発電・送電・小売を全部握る垂直統合だった。ここを
・小売全面自由化
・発電と送電の法的分離
まで進めた。新電力が参入でき、消費者が会社を選べるようになった。ここまでは、教科書的な市場改革で、国際的にも「最低限やるべきこと」は達成している。
問題は第二幕だ。
第二幕は「市場を回す」。 自由化すると、電気は市場商品になる。でも電気は在庫できないし、需要と供給が一瞬でもズレると停電する。だから普通の商品市場より、はるかに精密な設計が必要になる。
ここで日本は、制度は作ったが、使いこなしが甘い。
たとえば
・卸電力市場(JEPX)の価格変動が激しすぎる
・長期契約が弱く、新電力が価格ショックに耐えられない
・容量市場や需給調整市場が分かりにくく、投資の予見性が低い
結果として、 「自由化したのに、安定投資が起きにくい」 という矛盾が生じている。
第三幕が、まだ来ていない本丸だ。
第三幕は「不安定電源を前提にした市場設計」。 再エネが増えると、電気は余ったり足りなかったりする。ここで必要なのは
・蓄電池
・需要側調整(使う量を動かす)
・送電網の広域最適化
これらがきちんと報われる市場ルールだ。
今の日本は、 「発電したら売れる」 「止めずに回したら偉い」 という火力・原発向けの設計思想がまだ強い。再エネや蓄電池、需給調整は、制度の周縁に追いやられている。
だから「改革は終わった」とは言えない。
ここで、国民民主が打ち出せた“違い”が見えてくる。
維新は「規制を壊す」改革が得意。
自民は「現場を守る」調整が得意。
国民民主がハマる余地は、 「市場をちゃんと設計する」改革だ。
自由化の次は、放置ではない。 市場は、設計しないと壊れる。 電力は特にそういう代物だ。
電力市場改革の次の一手は、値段を下げる話でも、再エネ礼賛でもない。 「不安定さを前提に、どう安定を売買するか」という、かなり知的で、しかし生活に直結するテーマだ。
派手なスローガンにはならない。でも、ここを語れる政党は少ない。 制度の裏側を理解している党が、静かに主導権を取れる分野でもある。 政治のドラマは、往々にしてこういう“地味な本丸”から始まる。
起きている理由はシンプルで、しかも厄介だ。 JEPXは「普通の市場」みたいな顔をしているけれど、実は普通じゃない商品を、普通じゃない設計で売っている。その歪みが、価格の乱高下として噴き出している。
まず、電気という商品の性質。
電気は在庫できない。今日余った電気は、明日に持ち越せない。需要と供給が数%ズレただけで、価格は理論上、無限大に跳ねる。この性質だけでも、価格は荒れやすい。
次に、JEPXの取引構造。
日本の卸市場は、スポット取引への依存が高すぎる。欧米では、先物や長期契約が厚く、市場価格はあくまで「調整弁」だ。ところが日本では、新電力を中心に「明日の電気を明 日買う」取引が多い。燃料価格が跳ねる、寒波が来る、再エネが止まる。すると逃げ場がない。
三つ目が、供給側の“薄さ”。
日本の発電は、火力・原発・再エネが混ざっているが、余力が少ない。停止中の設備も多く、「ちょっと需要が増えた」だけで、限界費用の高い電源が価格を決めてしまう。市場 が薄いと、価格は敏感に跳ねる。
四つ目は、価格上限と下限の設計。
JEPXには価格キャップ(上限)があるが、それでも十分高い水準だし、発動条件も限定的だ。結果、需給逼迫時に「警報」ではなく「悲鳴」として価格が現れる。価格が情報 として遅すぎる。
五つ目が、再エネの扱い。
太陽光や風力は限界費用がほぼゼロだが、天候で急変する。しかも、固定価格買取(FIT)の電気は市場の外で動く部分が大きく、市場価格と実需がズレやすい。これもボラテ ィリティを増幅させる。
まとめると、
・在庫不可の商品
・スポット依存
・供給余力が薄い
・価格調整ルールが荒い
・再エネが市場に完全に組み込まれていない
この五点セットで、価格が荒れない方がおかしい。 重要なのは、これは「市場が悪い」わけではないことだ。 市場設計が、電気の性格に追いついていない。
だから次の改革は、
・長期契約を市場制度として厚くする
・需給調整や容量にちゃんと値段をつける
・価格シグナルを、事後の悲鳴ではなく事前の予告にする
という方向になる。
価格が乱高下する市場は、投資家にも消費者にも嫌われる。 電力市場改革の本質は、「安くする」ではなく「荒れにくくする」ことだ。 ここを理解している政党は、正直あまり多くない。だからこそ、語り甲斐があるテーマでもある。
・蓄電池、というのは、蓄電池がまだ、技術的に完成されていない、ということ?
結論を先に言うと、「未完成」ではない。でも「主役を張るほど安くも、厚くもない」。だから電力システムの中で、まだ脇役に甘んじている。
まず技術の成熟度。
リチウムイオン電池を中心に、蓄電池の技術自体はかなり完成している。電気自動車が普通に走っている時点で、「動かない」「危ない」「使えない」段階はとうに過ぎた。定置 用(電力網につなぐ大型電池)も、実証ではなく実戦配備のフェーズに入っている。
では、なぜ足りないのか。
一つ目は、コストと寿命のバランス。 蓄電池は、作るのも、劣化するのも早い。10年程度で性能が落ち、交換が必要になる。電力設備は本来、30?40年使う世界だ。時間軸が合わない。そのギャップがコストを 押し上げる。
二つ目は、容量の桁が違う。
再エネが止まったときに必要なのは、数分ではなく数時間、場合によっては数日分の電力だ。現在の蓄電池は、瞬間調整や数時間の平準化には強いが、長期貯蔵は苦手。ダムのよ うには振る舞えない。
三つ目は、市場ルールが追いついていない。
蓄電池は、発電も送電も需要でもない、正体不明の存在だ。充電するときは需要、放電するときは発電。今の制度では、この二重人格が扱いにくく、十分に稼げない。技術より制 度がボトルネックになっている。
四つ目は、材料と供給網の制約。
リチウム、ニッケル、コバルト。資源は有限で、地政学リスクも高い。大量導入すると、価格が跳ねる。ここが「再エネは国産」という物語を邪魔する部分でもある。
だから、方向性は二つ同時に進む。
一つは、役割の明確化。
蓄電池は「全部を支える万能選手」ではなく、
・周波数調整
・ピークカット
・再エネの短周期変動吸収
という“瞬発系”の役割に集中させる。ここは今でも勝てる。
もう一つは、次世代技術への橋渡し。 全固体電池、ナトリウムイオン、レドックスフローなど、長寿命・低コスト・大容量向けの技術を育てる。ここは国家プロジェクト向きだ。完成を待つのではなく、段階的に使う 。
重要なのは視点だ。 蓄電池は「技術が足りないから使えない」のではない。 「使い方と制度が、技術の現在地に合っていない」。
電力システムは、オーケストラに似ている。 蓄電池はまだ、ソロを任されていないが、テンポを保つ打楽器としては不可欠だ。主役交代は一気に起きない。でも、楽章が進むにつれて、音量は確実に上がっていく。
ここを冷静に説明できると、再エネ議論は一段、大人になる。
それは電力会社や電機メーカーに頑張ってもらう分野じゃないの?政策でどうにかできるのかな?
直感は半分当たり、半分は外れている。 技術を作るのは企業の仕事。でも「動く理由」を作るのは、ほぼ100%政策の仕事だ。
需要側調整は、企業の善意や努力だけでは広がらない。なぜなら、今の制度だと「頑張っても儲からない」からだ。ここが核心になる。
まず、電力会社や電機メーカーに任せきれない理由。
電力会社の立場から見ると、 需要側調整が進むと、売電量は減る。設備投資も読みづらくなる。今の料金制度では、需要を減らす努力は自分の首を絞めかねない。合理的に見て、積極的になりにくい。
電機メーカーの立場では、 対応機器を作っても、共通規格がない、報酬が不透明、普及時期が読めない。投資判断ができない。技術はあっても、量産に踏み切れない。
つまり、市場が未定義だ。
ここで政策がやるべきことは、三つだけでいい。余計な口出しはいらない。
一つ目は、「調整力」に値段をつけること。 電気を作る能力だけでなく、減らす能力、ずらす能力を、正式な商品として市場に載せる。需給調整市場や容量市場で、需要側も発電所と同格に参加できるようにする。これだけ で、事業になる。
二つ目は、ルールと規格の統一。 機器が価格信号や指令を受け取るための通信規格、セキュリティ基準を国が定める。メーカーはその枠内で競争する。道路標識を決めるのは国、車を作るのは企業、という分業だ 。
三つ目は、初期リスクの肩代わり。 最初の数年だけ、参加事業者に最低収入を保証する。補助金ではなく、保険に近い仕組みだ。市場が立ち上がれば、手を引く。
これだけで何が起きるか。
電力会社は、 「売る」だけでなく「調整を束ねて売る」ビジネスに動ける。
メーカーは、 「対応機器を作れば、確実に売れる市場」が見える。
消費者は、 意識せずに参加して、電気代が下がる。
政策の役割は、命令ではなく、設計だ。 頑張れ、とは言わない。 こうすれば儲かる、という地形を作る。
需要側調整は、技術政策でも、産業政策でも、エネルギー政策でもある。だから「企業に任せればいい」では失敗するし、「国が全部やる」でも失敗する。その中間、市場を生む 政治が必要になる。
ここができると、再エネ導入も、電気料金の安定も、一気に現実味を帯びる。 派手な号令は要らない。ルールを一段、賢くするだけだ。
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