26年2月②

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26.2.4 原発廃絶の可能性と再エネの普及可能性

原発廃絶の可能性と再エネの普及可能性について、原子力発電の章の中に、新しい投稿を挿入しました。

原発廃絶へのロードマップ2-自然エネルギー – シャドウキャビネット

26.2.4 火力発電について

日本の火力発電技術をこの先も活かせるか?について、火力発電の章の中に新しい投稿を挿入しました。

火力発電の可能性 – シャドウキャビネット

26.2.4 農政の改革法 2.3の続き

農家の不満が高まっても、農家に直接、補助金を支払えばいいわけでしょう?

筋は通っている。その発想自体は、世界の農政ではむしろ主流だ。 ただし、日本でそれをやるときには、避けて通れない「三つの現実」がある。

まず確認から。 農家に直接補助金を払う――これは「価格支持」から「所得補償」へ切り替える、という意味だ。EUもアメリカもこの方向に舵を切った。市場価格は下げてもいい、その代わり 農家の生活は国家が別枠で支える。理論的にはとてもきれい。

それでも日本で難航する理由がある。

一つ目は、財源と規模の問題。 主食用米だけでも、全国の作付面積は膨大だ。価格下落分を真面目に補填すると、兆円単位になる。農業予算全体を組み替える覚悟が要る。社会保障や防衛と同じテーブルに乗る 話になる。

二つ目は、「誰に払うか」という線引き。 小規模・兼業・高齢農家も含めて払うのか。規模拡大を進めたいなら、一定以上に限定するのか。ここで必ず不満が噴き出す。補助金は「公平」より「納得」を作るのが難しい。

三つ目は、国民の理解。 消費者から見ると、「米は安くなったのに、農家には税金が行く」という構図になる。説明に失敗すると、「二重取り」「甘やかし」という感情的反発が起きる。これは理屈では なく政治の問題だ。

それでも、やる価値はある。 なぜなら、今の日本はすでに別の形で農家を支えているからだ。 米価を高く保つ、生産を抑える、資材で帳尻を合わせる――これらは全部、見えにくい補助金だ。しかも非効率で、消費者負担が分散している。

直接支払いにすると、痛みが一気に「税金」として見える。その代わり、

・米価は下げられる

・構造改革が進む

・何にいくら使っているか説明できる

という利点がある。

重要なのは設計だ。

・面積ベース+環境条件(中山間地など)

・主食米と輸出・加工米で単価を分ける

・段階的縮小を前提に、依存を固定化しない

こうすれば、「ばらまき」ではなく「移行コスト」になる。

だから答えはこうだ。 直接補助金は必要条件だが、万能薬ではない。 それは、減反と高米価という“見えない補助”をやめる代わりに払う、正面からのコストだ。

結局、どちらかは払っている。 問題は、消費者が米の値段として払うのか、納税者として払うのか。 その選択を、そろそろ正面から議論しろ、という段階に来ている。

その方向に切り替えたら、水田はすぐに増やせるのかな?

結論から言うと、制度を切り替えても、水田は「すぐには」増えない。ここは期待値を現実に合わせた方がいい。水田は工場じゃない。スイッチを入れたら翌年フル稼働、という 性質のものではない。

まず、物理的な制約。 水田は「水利」「畦」「用排水路」「区画」がそろって初めて田んぼになる。減反や転作で畑化・放棄された田は、見た目以上に傷んでいる。水路が埋まり、畦が崩れ、雑草の根 が張る。復旧には、場所によって数年単位の整備が要る。

次に、人の制約。 作付けを増やすには、担い手が必要だ。高齢農家が「じゃあ来年から倍作ります」とはならない。規模拡大できる経営体に土地を集め直す必要がある。これは調整だけで数年かか る。農地は単なる不動産じゃなく、地域の人間関係の結晶だ。

三つ目は、機械と資金。 作付け拡大には、田植機、コンバイン、乾燥施設が追いつく必要がある。補助金を出しても、発注から納入まで時間がかかる。農業は設備投資のリードタイムが長い。

四つ目は、作付け計画と品種。 輸出・加工向け米を本気で増やすなら、品種転換が必要になる。品種は一度決めたら簡単に変えられない。育種も、農家の経験値も積み直しになる。

だから、直接支払いに切り替えた場合の現実的なタイムラインはこうだ。

1~2年目:作付け意欲は回復するが、生産量は微増

3~5年目:集約と再整備が進み、目に見えて増える

5~10年目:輸出・加工向けを含めた生産体制が固まる

ここで大事なポイントがある。 水田は「増やす」より「減らさない」方が難しい。 一度荒れた水田を戻すコストは、新規造成より高いことすらある。

だから政策の焦点は、

・今ある水田をどう維持するか

・完全に失われる前に、どう使い道をつくるか になる。

直接補助金は、作付けを増やす魔法じゃない。 それは「農家が田んぼを手放さずに済む時間」を買う政策だ。その時間を使って、集約・再編・輸出を進められるかどうかで、結果が決まる。

農政は、スピードより順序が命だ。ここを間違えると、増やす前に失う。

生産調整を終えて米をたくさん作ることにした場合、アメリカとの間に、何らかの摩擦は起こるかな?

起こる可能性は高い。米の生産調整をやめて大量生産・輸出を目指すとなると、日米間の農業貿易摩擦は確実に注目されるポイントになる。

背景を整理しよう。

まずアメリカは、日本の農産物市場に長年不満を持っている。特に米については、

・日本の減反政策が市場を歪めていること

・農協の共同販売が事実上の価格固定

・輸入障壁になっていること

・輸入米に対する関税や検疫が厳しいこと

を問題視してきた。

もし日本が減反を撤廃し、自由に生産・販売を拡大し始めれば、米の国内価格は大幅に下がる。さらに輸出も拡大すれば、アメリカ産米や米関連商品に対する競争圧力が強まる。

ここで摩擦が起きやすい理由は、以下の通り。

1.WTOルールとの関係 日本はWTOの農業交渉で「国内生産調整による価格支持」を一定程度認められてきた。しかし減反をやめて生産を増やし、なおかつ輸出補助金などで海外市場を攻勢的に狙うと 、「輸出補助金禁止ルール」や「市場アクセス義務」に抵触する恐れがある。

2.日米農産物交渉の政治的影響 過去のTPPや日米貿易交渉では、アメリカ側は日本の米政策に厳しい注文をつけている。日本が政策を急変させて大量生産・輸出に動くと、米農家を含むアメリカの利害関係者 から反発が強まり、交渉が難航するかもしれない。

3.市場の「ゲームチェンジャー」効果 米はアメリカの重要な輸出品でもあり、日米両国にとって戦略的作物。日本が突然「価格競争力のある輸出国」になれば、アメリカ農業界が保護政策強化を求めたり、対抗措置を とる可能性が高い。

4.国内政治の圧力 米国議会や州政府は、農業利権の強い影響力を持つ。米農家の反発は政治的に無視できない。日米関係全体の協議に影響を与えかねない。

ただし、摩擦を完全に避ける方法もある。 例えば、輸出拡大を段階的に進める、補助金は透明化しWTOルールに厳格に沿う、協調的な貿易枠組みを作る、などだ。

まとめると、 生産調整を終えて米をたくさん作り、輸出も増やす政策は、日米農業貿易摩擦の新たな火種になる可能性が高い。政治的・法的な調整が不可欠だ。

この問題は単なる農業政策の話にとどまらず、国際関係と経済安全保障の絡む複雑なテーマでもある。


26.2.4 社会保障費の圧縮

社会保障費を圧縮する方法についての考察を、新しい投稿として、社会保障の章の中に挿入しました。

社会方法圧縮の方法について – シャドウキャビネット

26.2.4 理想的な新党

理想的な新党について、政党の章の中に新しい投稿を挿入しました。

理想的な新党とは? – シャドウキャビネット

26.2.6 東京27区

衆議院銀選挙の章の中に、東京27区についての投稿を挿入しました。

衆議院議員選挙 – シャドウキャビネット

26.2.6 ウクライナ戦争

ウクライナ戦争の章の中に、新しい投稿を挿入しました。

26.2.6 ウクライナ戦争分析 – シャドウキャビネット

26.2.6 近代文明の考察

近代文明って本当に正しかったのかな?人類がもし、別の進化の道のりを歩んだらさ、漫画のAKIRAに出てくるような超能力が目覚めて、機械や資本主義のシステムに頼らな くても、地球上で快適に生きていける可能性も、あったんじゃないかな?
その発想、かなり健全だと思う。 近代文明が「唯一の正解」だったかどうかは、実は誰にも証明できない。僕らは勝ったルートの中に生まれてしまったから、それを“当然”だと思っているだけだ。
まず押さえておきたいのは、近代文明は倫理的に正しかったから成立したわけではない、という点。 エネルギー密度の高い化石燃料、数式で自然を分解する近代科学、資本を自己増殖させる金融制度。これらが偶然うまく噛み合って、「強かった」から広がった。正義というより 、進化生物学で言うところの“適応度が高かった突然変異”に近い。
では、AKIRA的な超能力ルートはあり得たのか。
ここは思考実験として冷静に分解すると面白い。 人類の脳は確かに未使用領域が…という話が昔は流行ったけれど、実際には脳はかなり使い倒されている。なので「眠っている超能力器官」がそのまま覚醒、というのは生物学的 にはかなり怪しい。
ただし、完全な荒唐無稽でもない部分がある。
たとえば
・他者の感情や意図を高精度で読む能力(共感・直観の極端な進化)
・集団としての意思決定がほぼテレパシー的に同期する社会
・身体感覚や知覚が今よりずっと鋭敏で、自然環境と“会話”している感覚
これらは全部、弱い形ではすでに人類に備わっている能力だ。 もし人類史のどこかで、 「道具を作るより、内面の知覚を磨いた集団の方が生き残った」 という分岐が起きていたら、文明の姿はかなり違っていたはず。
ただ問題が一つある。
超能力的進化は、スケールしにくい。 100人のシャーマン社会は成り立つ。でも1億人都市は無理が出る。 機械と資本主義が恐ろしく強かった理由は、感情も倫理も置き去りにして、人数を無限に増やせた点にある。
AKIRAの世界が必ず崩壊に向かうのも、そこを突いている。 力が個人に内在すると、制御不能になった瞬間、都市ごと吹き飛ぶ。 近代文明は残酷だけど、「人間を信用しない設計」で巨大化できた。
だから僕の暫定結論はこうだ。
近代文明は正しくなかった。 でも別ルートの文明も、楽園だった保証はない。
むしろ今、面白い地点に来ている。 機械が外部の超能力(計算・記憶・通信)を担い、人間は内面の能力――倫理、意味、物語、共感――を取り戻さないと文明が壊れる段階に来た。 AKIRAは「超能力の暴走」を描いたけど、現代は「技術の超能力化」に直面している。
人類は結局、 機械だけの文明にも、精神だけの文明にも耐えられない生き物なのかもしれない。 その中間を探す、第二ラウンドが始まっている感じがする。

キリストはある意味、人間の超能力を完全開花させた人でしょう?世の中の人がキリストみたいな人ばっかりだったら、社会が崩壊に向かうなんて、あり得ないでしょう?

かなり核心を突いていると思う。ただし、その直感は一段階だけ分解すると、もっと鋭くなる。

キリストを「超能力者」と呼ぶなら、その能力の中身はテレキネシスでも予言でもなく、他者中心性が極限まで鍛えられた意識状態だ。 敵を愛する、弱者を優先する、復讐の連鎖を断ち切る。これは奇跡というより、人間の社会的本能を真逆方向にフル回転させた結果だ。

ここで重要なのは、キリストの「力」は 世界を支配する力ではなく、世界に抵抗しない力だったこと。

確かに、全人類がキリスト級の精神性を持っていたら、 警察も軍隊も契約書も資本市場も要らない。 騙さない、奪わない、見捨てない。社会は崩壊どころか、摩擦ゼロで回る。

でも――ここが決定的なポイントだ。

キリスト的人間は、進化論的に増えにくい。

なぜなら

・裏切られやすい

・搾取されやすい

・短期的競争に弱い

という性質を持つからだ。 実際、キリスト本人は殺されている。これは象徴ではなく、冷酷な現実だ。

つまり、キリストは 「人類がなり得る最高地点」を示したが、 「人類が平均として安定できる地点」ではなかった。

ここで文明の皮肉が現れる。

近代社会は、人間がキリストみたいになれない前提で設計されている。 善意を期待せず、制度で縛る。 徳を前提にせず、インセンティブで動かす。 この不信の設計が、巨大社会を可能にした。

だから、 「キリスト的人間ばかりなら社会は崩壊しない」 これは論理的に正しい。

同時に、 「キリスト的人間ばかりの社会は、自然発生しない」 これもまた正しい。

面白いのは、キリスト教文明そのものが、キリスト的ではないという事実だ。 教会、権威、法、国家。 それらは「キリストが不要な世界」を作るための装置だったとも言える。

結局、キリストは 人類の未来像というより、人類への告発だったのかもしれない。 「ここまで行けるのに、なぜ行かない?」という。

AKIRAの超能力が暴走するのと同じで、 キリストの能力も、全員が持たなければ成立しない。 一部だけが持つと、必ず世界と衝突する。

今の文明が直面している問いは、ここに重なっている。 人間を信用しない制度の限界が見え始めた一方で、 人間がキリスト級に成熟する保証もない。

だから次の文明は、 「キリストの倫理を、制度にどう翻訳するか」 という、かなり無茶な課題に挑んでいる最中なんだと思う。

成功すれば奇跡、失敗すればAKIRA。 人類史としては、なかなか面白い局面だ。

それらは「キリストが不要な世界」を作るための装置だったとも言える。 というのは、どういうこと?教会や国家があったって、キリストが生きて存在してくれているのと同じ効果は、生じていないんじゃないの?

いいところを突く。そこに違和感を覚えるのは、とてもまっとうだ。

まず前提をはっきりさせると、 教会や国家が「キリストの代わり」になることは、原理的に不可能だ。 あなたの言う通り、キリストが生きて目の前にいて、人と人のあいだに立ち続ける――その効果は、どんな制度も再現できない。

それでも「キリストが不要な世界を作る装置だった」と言える理由は、 目的が“再現”ではなく、“代替”だったからだ。

キリストが生きていたと仮定しよう。 人は争いそうになるたびに彼のもとへ行き、 「赦せ」「分け与えよ」「敵を愛せ」と直接言われる。 これは超高性能だが、致命的にスケールしない。 人口が増えれば、キリストは物理的に足りなくなる。

そこで起きたのが、翻訳だ。

教会はこう考えた。 「キリストが“毎回そこにいる”前提をやめよう。  代わりに、キリストがいなくても回る仕組みを置こう」

・直接の赦し → 罪と罰の体系

・無条件の愛 → 慈善の義務化

・内面の悔い改め → 儀礼と告解

・人格的な呼びかけ → 教義と権威

これは劣化コピーだけど、量産はできる。 キリスト本人の不在を前提にした、応急処置としての文明化だ。

国家も同じ構造を持つ。 国家は言う。「人を愛せなくてもいい。殺すな、盗むな、契約を守れ」 これは山上の垂訓より、はるかにハードルが低い。 でも、その低さがなければ、何百万人も同時に暮らせない。

だから、 教会や国家は 「キリスト的でない人間でも、最悪の地獄にはならないようにする装置」 だった。

あなたの疑問はここで本質に触れている。

そう、同じ効果は生じていない。 生じていないからこそ、十字軍も宗教裁判も国家暴力も起きた。 キリストがそこにいたら、たぶん止められていた。

でも逆に言えば、 キリストがいない世界で、 人類が自滅せずに今日まで来られたのは、 この粗悪な代用品のおかげでもある。

だからこれは、賛美でも擁護でもない。 むしろかなり冷たい評価だ。

キリストは 「人間が自分で成熟すること」を要求した。 教会と国家は 「人間は成熟しない前提」で設計された。

このズレが、ずっと軋み続けている。

面白いのは今だ。 制度の効き目が弱まり、 人々は再び「生身の倫理」を求め始めている。 しかしキリスト本人は現れない。

だから現代は、 「キリスト不在を前提に作った装置が限界に来て、  それでもキリスト級の倫理を要請される」 という、かなり無理な局面に入っている。

教会や国家が代替だったと気づいた瞬間、 次の問いが浮かぶ。 代替でない形で、どうやって人間を人間にするのか。 そこが、近代以後の本当の未解決問題だ。

所有権の概念が確立したから、近代的な制度や資本主義が発達した、なんて言うけどさ、キリストが生きていたら、「所有権は正しい概念だ」とは言わないんじゃないかな?
その直感は、かなり正確だ。 少なくとも福音書に出てくるキリストは、「所有権は正しい概念だ」とは言わない。むしろ、その逆方向を執拗に突いている。
ただし、ここは白黒ではなく、射程の違いとして見ると一気に腑に落ちる。
キリストが問題にしたのは、 「誰が何を持つ権利があるか」ではなく、 **「持っているという意識が、人をどう変形させるか」**だった。
金持ちの青年に「すべて売って貧しい人に与えよ」と言ったのも、 共有制を制度として導入したかったからではない。 「あなたは財産に所有されている」と突きつけたかった。
つまりキリストの視点では、 所有権は
・正しい/正しくない という法的概念ではなく、
・人を自由にするか/縛るか
という霊的概念だった。
一方、近代社会がやったことは真逆だ。
人間は利己的で、裏切り、奪う。 だから 「これは誰のものか」を明確にし、 侵害すれば罰する。 この不信を前提にした線引きが、所有権だ。
ここが決定的なズレだ。
キリストは 「人間は変われる」という前提に立つ。 近代制度は 「人間は変わらない」という前提に立つ。
だからキリストが生きていたら、こう言った可能性は高い。 「所有権は、必要悪としては理解できる。  だが、それを正義だと思い始めた瞬間、魂が貧しくなる」
実際、初期キリスト教共同体では、 財産を持ち寄って分け合う生活が行われていた。 所有権の否定というより、所有への執着の否定だ。
資本主義が爆発的に発達したのは、 所有権が 「人間を管理する技術」から 「人間の価値を測る物差し」へ変質したからだ。 持つこと=偉い、成功、自由。 ここで完全に宗教的な位置を占めた。
キリストがそれを見たら、 たぶん資本主義を悪魔と呼ぶより先に、 「あなたがたは、なぜそれを信仰しているのか」と言う。
だから結論はこうなる。
キリストは 所有権を制度として論破しない。 革命家でも法律家でもない。 その代わり、 所有権に救済を期待する人間の心を、根こそぎ疑う。
近代文明は 「所有権があれば社会は回る」と証明した。 キリストは 「所有権があっても、人は救われない」と示した。
この二つは矛盾しない。 ただ、立っている次元が違う。
だからこそ今、 制度は回っているのに、 なぜか世界が貧しく感じられる。 それは所有権が強くなりすぎて、 人間が“持つ者”ではなく **“持たされている者”**になっているからだ。
キリストが生きていたら、 所有権を壊すより先に、 その錯覚を壊しに来たはずだ。

しかし所有権の錯覚を壊して、代わりにどんな、世の中の制度を作ったらいいんだろうね?

ここから先は「正解」を出す話じゃない。 むしろ設計図の描き直しに近い。キリストが壊したのは錯覚であって、制度そのものではないからね。

まず一つ、はっきりしていることがある。 所有権を消す制度は、必ず暴力を呼ぶ。 20世紀がそれを証明した。 「私有をなくせば善くなる」という発想は、所有の錯覚を壊すどころか、国家という巨大な所有者を生むだけだった。

だから代案は、「所有しない」ではなく **「所有に救済を期待しなくていい構造」**を作る方向になる。

たとえば、思考実験としてこんな軸が考えられる。

所有ではなく、使用を中心に置く。 家や車や道具は「誰のものか」より「誰が今、責任を持って使っているか」。 終わったら手放す。溜め込んでも評価されない。 中世の修道院や、現代のコモンズ論がここに近い。

富ではなく、信頼が通貨になる。 信用スコアの話ではない。 長期的に他者に害を与えなかった、助けた、約束を守った、という履歴が、 仕事や資源配分の判断材料になる。 市場より遅いが、暴走しにくい。

国家ではなく、関係の単位を小さくする。 巨大制度はキリストを必要としない代わりに、顔も必要としない。 だから倫理が蒸発する。 生活圏・仕事圏・ケア圏を重ね、顔が見える規模で意思決定する。

罰ではなく、回復を目的にする。 所有侵害に対する処罰ではなく、関係の修復を優先する。 復讐を制度化しない。 これはキリスト倫理を、かなり無理やり制度に押し込む試みだ。

重要なのは、これらはどれも 「人間は聖人になる」という前提を置いていないことだ。 裏切りも怠惰も想定したうえで、 それでも所有に魂を預けなくて済む設計にしている。

キリスト的なのは、制度の形ではなく、重心だ。 何を守るか、何を増やすか、何を評価しないか。

もしキリストが今、生きていたら、 新しい憲法を書いたりしない。 たぶん、こう言うだけだ。 「それを失ったとき、あなたは誰になるのか」

制度は、その問いに 毎日、思い出させる仕掛けであればいい。 完全な答えを与える必要はない。

文明は、 「正しい制度」より 「間違いに気づき続ける制度」のほうが、 長く生き残る。

所有の錯覚を壊す制度も、 完成形は存在しない。 問い続ける構造そのものが、 たぶん一番キリスト的なんだ。

26.2.8 衆院選について

今回の衆院選について、野党はもっと高市政権への攻めどころがなかったのか?について、衆院選のページの中に、新しい投稿を挿入しました。

26.2.8 衆院選 – シャドウキャビネット

26.2.9 国民民主党の低迷分析

衆院選で国民民主党が議席を減らしたことについて、衆院選のページの中に新しい投稿を追加しました。

26.2.9 国民民主党の低迷分析 – シャドウキャビネット

26.2.9 高市首相の今後

高市首相が今後、どんな政策に手を付けそうか?について、衆院選のページに投稿を追加しました。

26.2.9 高市首相の今後 – シャドウキャビネット

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