基本的人権2

社会権―人間が人間らしく生きるための権利。20世紀的基本権。「国家による自由」
いくら自由だ、平等だと言ってもそれだけではお腹が膨れない。いざとなったら助けてくれるアンパンマンみたいな存在が必要だ。それが社会権だ。
資本主義経済の発展は貧富の差をもたらした。また、世の中にはハンディキャップを負った人など社会的弱者も数多く存在している。人権が個人の尊重を基本としている以上、お互いがお互いを支え合い、人間らしい生活を社会全体で保障することが必要だ。そのための権利が生存権をはじめとする社会権だ。
社会権はまず生存権を保障している(第25条)。でも、国が最低限度の生活を保障してくれるのであれば、僕なら働かない。みんなそれでは社が成り立たないから、僕みたいな健康なものはしっかりと働いて、社会に貢献していかなければならない。でも働くためには、知識が必要だから、義務教育を無償化(タダ)で受ける、教育を受ける権利が保障されている(第26条)。そして教育を受けた者はしっかりと頑張ってもらわないといけない。でも労働者の立場は使用者の立場に比べて弱いから、第28条では労働三権(団結権・団体交渉権・団体行動権)が、また勤労の権利(第27条)が保障され、ハローワークなど職業紹介する場が提供されている。この生存権・教育を受ける権利・労働基本権が社会権の3本柱だ。
生存権(第25条)
生存権は直接的に保障されるものでなく、法律などの具体的な定めが必要な権利だ。
憲法第25条の第1項には、「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。また第2項では、社会保障政策の実施を政府に義務付けている。
しかしこの最低限度の生活は、人によってさまざまであり、基準が非常に難しい。そこで最低限度の生活の保障をめぐって裁判になる。その代表的な訴訟が、人間裁判と呼ばれた「朝日訴訟」だ。
【概要】国立岡山療養所で肺結核のため療養していた朝日茂さんが、月額600円(現在の貨幣価値では23000円程度)の生活扶助では、最低限度の生活を営むことはできず、生活保護法にもとづき厚生大臣が定めた生活保護基準は憲法に違反するとして訴えた。
朝日訴訟において最高裁判所は、朝日さんが上告中に亡くなったことを理由に、上告を退けた。その上で最高裁判所が採ったのがプログラム規定説だ。プログラム規定説とは、憲法第25条はわれわれ国民の具体的権利を示したものではなく、政府の指針や道義的目標を示したものに過ぎないという学説だ。ここでいうプログラムとは、指針や方針という意味だ。要するに最低限度の生活を保障するかどうかは政府の気持ち次第っていうことだ。社会権は「国家による自由」だ。国家によって恩恵的に与えられているようなものだから、法律の制定が無ければ認められない抽象的な権利だ。裁判所としてみれば、法律を制定する国会議員は国民が選ぶことができるのだから、生活保護法の内容に不満があるのであれば、その不満を解消してくれる国会議員を選びなさいとのことだ。
教育を受ける権利(第26条)
国によって生活が守られるだけでなく、個人の自立を促すために教育を受ける権利が保障されている。
憲法では「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」が保障されており、聾学校や盲学校などの特別学校の設置、奨学金の付与など、教育の機会均等が図られている。
また第26条第2項では「義務教育は無償」とされているけど、この「無償」の範囲について判例では「授業料」とされていて、「教科書代」や「給食費」、鉛筆やノートなどの「学用品」は無償の範囲外とされている(教科書代は法律により無償となっている)。
労働基本権(勤労の権利・労働三権)
国民には勤労の義務がある一方で、働くことによって自ら収入を得て、自立した市民として生活するために勤労の権利がある。そのため職業安定法にもとづいて公共職業安定所(ハローワーク)がある。
また労働者には団結権・団体交渉権・団体行動権の労働三権が認められており、弱い立場の労働者を保護する内容となっている。
基本的人権を守るための権利
参政権(19世紀的基本権 国家への自由)
参政権とは、国政に国民が参加することを保障した権利で、国民主権を実現するための権利だ。
憲法では、公務員の選定や罷免権(第15条)、普通選挙、平等選挙、秘密選挙の保障(第15条、44条)、地方公共団体の長や議員の選挙権および被選挙権(第93条)が定められている。また、日本では代議制を採用しているが、代議制を補うために直接民主制的な参政権として、最高裁判所長官の国民審査(第79条)、地方特別法の住民投票(第95条)、憲法改正の国民投票(第96条)が規定されている。
請求権(受益権)
請求権とは、人権が侵害されたときに救済を求める権利だ。
死刑判決から再審の結果、冤罪が証明された事件として免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件の4例があるが、免田事件の場合、被害者となった免田栄さんは、死刑が確定してから12559日間(31年7か月)も不当に拘束された。しかも、拘束された間、国民年金の掛け金を支払っていなかったため、現在でも無年金の状態となっている。
このように国家などによって不当に拘束され、人権が侵害されて、裁判所から無罪判決が出た場合、その賠償などを請求する権利を刑事補償請求権という。
請求権としては刑事補償請求権(第40条)以外にも、請願権(第16条)、国家賠償請求権(第17条)、裁判を受ける権利(第32条)が保障されている。国家賠償請求権とは、公務員の不法行為によって損害を受けた場合、国や地方公共団体に対し損害賠償を請求できる権利である。
先に述べた免田事件においては、免田栄さんに9071万2800円が支払われたが、失った時間はあまりにも長い。取り調べの可視化などの冤罪を防ぐ取り組みを行っていかないと、冤罪は誰にでも起こり得るものだから他人ごとでは決してない。
新しい人権
環境権
環境権は第13条の幸福追求権と第25条の生存権を根拠に主張されている人権だ。でも、残念ながら環境権は判例で認められていないし、環境権法と呼ばれる環境基本法でも認められていない。
ただ、環境権に付随する権利として、日照権は法律で認められている。みんなでより良い環境を享受する景観権も「国立マンション訴訟(2006)」において、景観権一歩手前の「景観利益」まで認められた。
知る権利
知る権利は国民主権や表現の自由などを根拠として主張されている人権だ。政府が国民に伝えるべき情報をしっかりと伝えないと、第二次世界大戦の大本営の発表のようになってしまう。そこで国や地方公共団体に対し、情報の提供・公開を請求する権利が知る権利だ。
情報公開に関する動きは、地方公共団体が先行した。1982年の山形県金山町からはじまって、現在ではすべての都道府県で情報公開条例が制定されている。そして国レベルでも、1999年に情報公開法が制定された。
この法律は誰でも情報の公開を請求できるのが画期的だ。だからお金さえ払えば、未成年であっても外国人であっても、情報の公開を請求できる。ただし、この法律の正式な名称は「行政機関が保有する文書の公開を請求する法律」なので、対象は行政機関であって、国会(立法)、裁判所(司法)などは対象外とされている。また、いくら情報公開できるといっても捜査状況や国防、個人のプライバシーに関する情報は公開の対象外とされている。ここまで情報公開制度を整えるのであれば、「知る権利」だって法律に明記すればいいのに、残念ながら「知る権利」は規定されなかった。
プライバシーの権利
誰だって人に言えない秘密の一つや二つはあるだろう。それを暴露されるとたまったもんじゃないから、このように個人の私的な情報を他人に干渉されない権利をプライバシーの権利という。この権利は判例で確立した権利として認められている(「宴のあと」事件、「石に泳ぐ魚」事件)。もともとは「他人にほっといてもらう権利」としてアメリカで主張されたものだったが、それが「個人の私的な情報を他人に干渉されない権利」として認識されるようになった。
そして現代は、高度情報化社会といわれ、インターネットの普及などITの発展には目を見張るものがある。それにともない僕らの生活は便利になったけど、反面、個人の私的な情報が簡単に入手できるようになった。例えば、位置機能が付いた携帯電話から住所が特定され、それをネットに流されるといった被害も報告されるようになった。一度ネットに情報が流れてしまうと、それを削除するのは容易ではないため、その情報は半永久的にさまようようになってしまう。そこで、プライバシーの権利は「自己の情報をコントロールする権利」としても主張されるようになった。
アクセス権
マスメディアにアクセスして、意見や反論を述べる権利をアクセス権という。
アクセス権は、共産党がサンケイ新聞に自民党による批判記事を掲載されたことに抗議し、サンケイ新聞に対して、無料で反論文の掲載を要求したときに主張された(サンケイ新聞意見広告訴訟)。でも最高裁判所は新聞の表現の自由(文面を割愛して反論文を掲載すれば、新聞の表現の自由を奪ってしまう)を理由に、共産党の訴えを退けた。そのためアクセス権は現在も認められていない。
外国人の人権、法人の権利
外国人の人権
そもそも日本国憲法は外国人を対象としたものだろうか。答えはNOだ。日本国憲法第3章のタイトルは「国民の権利及び義務」となっている。「国民の」とあるわけだから、これはもちろん日本人を対象にしている。また憲法第22条第2項では「国籍の離脱」を認めているが、外国人が母国の国籍を離脱して、いきなり日本国籍を取得することはできない。自由な国籍の離脱が認められているのは日本人であって外国人ではない。これらを根拠に日本国憲法は日本国民を対象としたものであって、外国人を対象としたものではないと考えられている。ただし人権はすべての人を対象としているわけだから、外国人であっても、人である以上、すべてを認めないわけにはいかない。そこで、日本人と同じようにすべてが適用されるわけではないが、性質上可能なもののみが認められるとされている。
結論から言うと、外国人に入国の自由や滞在の自由は認められていない。これは国際慣習上、認めている国が少ないことが理由だ。またかつて日本では、外国人を対象に指紋押捺を行っていた。でもこれは外国人を犯罪者扱いしているとの批判が強く、人権侵害だとして裁判になった。最高裁判所は指紋押捺制度を合憲と判断したけど(1995)、その後、指紋押捺制度は全廃されることになった(1999)。ところが、2001年に同時多発テロが発生し、国際情勢が不安定になったことから、2007年から満16歳以上の外国人を対象に、顔写真の撮影と指紋の採取が義務付けられるようになっている。
次に外国人の政治活動の自由を認めるかだが、これは日本国民の生活を害さない限り認められるとされた。
法人の権利
僕ら肉体を持つ人を自然人といい、人権は自然人を対象としている。だから肉体を持たない会社などには人権が認められないことになる。でも会社にも権利を認めないと不都合なことが生じてしまう。例えば、会社に財産権を認めないと、会社の財産は誰のものかということになってしまう。そこで会社に対し、法律によって人と同じように権利の主体とみなしましょうとしたものを法人という。
法人の権利は性質上、可能なもののみ認められている。

参照、引用元:
「政治・経済の点数が面白いほどとれる本」執行康弘 KADOKAWA







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