基本的人権

人間が人間であるために生まれながらにして持っている権利。これが基本的人権だ。この基本的人権は「個人の尊重」を基調としている。

人間は一人一人異なり、様々な価値観や個性を持っている。そこでお互いの価値観や個性を尊重し、かけがえのない自立した人間として尊重し合う。お互いを尊重し合うことに人権の第一歩がある。

また、お互いを尊重し合う必要があるからこそ、個人の生命を奪う戦争は否定されるし(平和主義)、一人一人の価値観や意見に違いがあるからこそ、一人一人の意見を政治に反映させるために国民主権の原理がある。さらに誰一人として同じではなく、みんなが違うから、すべての人は平等でなければならない。このように三大原則をはじめ、すべての人権は「個人の尊重」を出発点にしたものだ。近代では、一人一人の人間を自立した個人として尊重し合うことを大前提として人権が、そして社会が発展してきたことを忘れてはならない。

もちろん人権は無敵ではなく、制約が加えられている。個人主義はワガママ主義ではない。そこで人権を調整する原理として登場したのが「公共の福祉」という考え方だ。例えば、深夜に音楽をガンガンかける行為は、みんなの寝るという自由を侵害する、互いを尊重し合わない、ワガママな行為にすぎない。このように「個人の尊重」を前提とする以上、いくら個人は自由だと言っても権利の乱用は許されず、「公共の福祉」による制限がともなう。でも、「公共の福祉」の名のもとに何でもかんでも制約してしまうことも問題だ。「公共の福祉」のもとに僕らの権利・自由を奪えば、「個人の尊重」を否定することになってしまうからだ。「個人の尊重」に優越する「公共の福祉」であってはダメ。

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平等権

法の下の平等(第14条)
「人はみな違うからこそ平等でなくてはならない」。個人の尊重を基調とする平等とは、人種・信条・宗教など違った価値観を持つ人間をお互いが尊重し合うことだ。だからこそ、法的に特定の人を優遇することや差別することは許されず、法の適用はみんな同じだ(形式的平等・機会の平等)。しかし、人間はすべて同じでないから、すべてを同じに扱うことが逆に問題になることもある。
例えば、日本では所得に応じて課税額が異なる累進課税制度がとられているが、すべての人を平等に扱うなら、同じ税率にすべきだ。しかし、すべてを同じにしてしまうと、お金持ちとそうでない人との間に実質上の負担の差が生じ、かえって差別を助長してしまうこともある。そこで平等とは、法の内容や適用をすべて同じにしようという形式的な平等だけでなく、経済的格差や社会的格差を是正する、実質的な平等も考慮することだと考えられるようになった(実質的平等・結果の平等)。よって、累進課税制度の適用や、判断能力に乏しい未成年には刑罰を軽くするなどの少年法の規定、選挙における候補者数を男性と同数を女性に割り当てる(クオータ制)の導入などのポジティブアクション(積極的な差別是正)政策は、実質的な平等を図る上での合理的な差別であると考えられている。しかし、合理的な差別とは何か。何が合理的で何が非合理的なのか。この難しい判断をするのが裁判所の役割の一つだ。

自由権―国家からの自由(18世紀的基本権

人間が自由であるためには、体と心とお金が必要だ。そこで憲法は、身体の自由、精神の自由、経済活動の自由の3本柱の自由を保障している。

人身の自由

正当な理由がないのに身体を拘束することはできない。これが人身の自由だ。人身の自由の保障として、奴隷的拘束及び苦役を禁止している(第18条)。個人の尊重を大前提としている近代社会において、他人に対し、奴隷的な扱いを行うことなど認められているわけがない。また、苦役(苦痛)を与えることも憲法で禁止されている。日本では徴兵制を採用していないが、採用していない理由は平和主義の大原則もそうだが、徴兵制は苦役にあたると解されているからだ。
奴隷的拘束及び苦役の禁止以外に人身の自由は、法定手続きの保障(第31条)、訴求処罰の禁止(第39条)、一事不再理(第39条)などもある。罪刑法定主義とは、ある行為を罪として刑罰を科すのであれば、その行為を罪とする事前に制定された法律がなければならないという大原則だ。これはマグナ=カルタでもすでに登場している原則で、どのようなことをすれば罪になるのか、また罪を犯せばどのような刑罰が科せられるのかが事前に定められていないと、突然、刑務所に入れられることにもなりかねず、僕らは息を吸うことすらできなくなり、完全に自由が奪われてしまう。罪刑法定主義は憲法に直接明文で規定されてはいないが、第31条から導き出せる絶対的な原則だ。
また留置所や拘置所では、人身の自由が奪われることになるので、人権侵害にならないよう、刑事事件の被疑者・被告人には最大限注意を払わなければならない。そこで、令状主義(第33条・35条)や公務員による拷問の禁止(第36条)のほか、被疑者・被告人には黙秘権などが認められている。

精神の自由

思想・良心の自由(第19条)
頭の中で何を思おうが、それは個人の自由だ。それを条文化して保障した背景には、戦前の治安維持法(1925年制定。1928年には最高刑が死刑に)がある。治安維持法では天皇制を否定したり、社会主義・共産主義を主張したりした人たち(国体の変革)は徹底的に弾圧された。こうした背景があるから、現在の憲法では、頭の中で何を思おうが、何を考えようが、絶対的に保障される内心の自由として、思想・良心の自由や次の信教の自由が保障されている。
信教の自由(第20条)
頭の中で何を思ってもよいということは、何を信じてもよいということだ。だから、みんながどんな宗教を信仰しようが、布教しようが全く問題ない。大日本帝国憲法下でも信教の自由は一応、認められていたけど、事実上、神道が国教化されていた。その神道が軍国主義に利用され、戦争中は天皇のために命をささげることが誉となってしまった。
戦争の反省から、宗教と政治を切り離すため、日本国憲法では政教分離の原則が定められている。
集会・結社・表現の自由(第21条1項)
自分の意見・考えを発表する自由として表現の自由が保障されている。自分の意見・考えを発表する表現の自由は、民主政治には絶対になくてはならない人権だ。
また、世の中に自分の考えを広めるには、大勢の人たちに聞いてもらいたいから人を集める集会の自由が、その考え方に共感した人がグループを作る結社の自由が保障されている。自民党や民主党などの「政党」に関する規定は憲法にはないけど、この結社の自由を根拠としている。
表現の自由は先ほどの思想や信教の自由のような内心の自由と異なり、他人の人権を侵害する可能性があるので、制限されることがある。でもその制限は経済活動の自由を制限するのとは異なり、表現の自由のような精神の自由を制限する場合には、より慎重にならなければならない。
例えば独占禁止法は、経済活動の自由を制限することになる。でも、その法律の内容に反対の場合は、国会議員に請願する、自分が選挙に出るなどで、その法律を改正して経済活動の自由を回復させることが可能だ。しかし、もし表現の自由を制限する法律ができてしまうと、意見や考えを自由に述べることができなくなってしまい、誰かが独裁政治をやっても誰も批判できなくなる。また、その法律を改正しようにも、そもそも表現の自由が無ければ、言論に訴える・デモ行進を行うなどの表現活動が全くできなくなってしまう。このように表現の自由は自分で回復させることが難しい人権でもあるから、数多くある人権の中でも極めて重要な人権だ。
検閲の禁止、通信の秘密(第21条2項)
検閲とは、行政権が主体となって、新聞や雑誌などが発表や出版される前に事前にチェックすることをいう(北方ジャーナル事件)。たとえ表現の自由が保障されているとしても、政府が事前に出版内容などをチェックすれば、それは表現の自由の制限に他ならない。そんなことは許されるわけがないから、検閲は絶対的に禁止されている。
また同じく第21条には通信の秘密も保障されている。電話やメールの内容などをチェックされていたら、恐ろしい管理社会になってしまう。
学問の自由(第23条)
かつてソクラテスは真理とは何か、本当とは何かについて哲学した。でもその本当のものが、現体制の否定や都合の悪いものにつながると弾圧された歴史がある。
日本でも大日本帝国憲法下においては滝川事件や天皇機関説事件などの弾圧事件が起こっている。そこで日本国憲法では、真理を探究する自由として学問の自由が保障されている。
この学問の自由には、大学の運営は外部に干渉されることのない「大学の自治」、そして研究内容や成果を発表する「教授の自由」も制度的に含まれていると解されている(大学が対象。小・中・高は制限を受ける)。

経済活動の自由

居住・移転・職業選択の自由(第22条1項)
僕らはお金を稼ぐために、どこに住もうが、どこに移転しようが、どんな職業に就くのも自由だ。また、憲法には明記されていないけど、この条文から営業の自由も保障されていると解されている。この営業の自由をめぐって最高裁が違憲判決を下した訴訟が薬事法距離制限訴訟だ。薬局の近くに薬局を開局することを認めると、薬の安売り競争が起こり、国民の健康を害する可能性があるという理由で、薬事法や条例で薬局の近くに薬局を作ってはいけないという距離制限が設けられていた。この距離制限に関し、最高裁は合理的な規制とはいえないとして違憲判決を下した。
しかし、この第22条は、無制限に保障されている人権ではない。例えば、ゴルゴ13の様な殺人を生業とする職業が認められるわけがない。また政府によって届出制や許可制、資格制等の各種規制や、場合によっては営業停止などの処分を受けることもあり、表現の自由と同様に、第22条も公共の福祉によって制限される人権だ。
財産権の不可侵(第29条)
憲法第29条によると、国家が国民の財産権を侵害することは許されずとあり、私有財産権を保障した内容となっているが、「正当な補償のもと、公共の福祉のために用いることができる」ともされている。「正当な補償」に関しては色々な学説があるが、例えば高速道路や空港が建設されると、みんなが利用できて便利になるので、建設予定地の地権者から土地収用法という法律に基づき、土地を買い上げることができる。財産権は公共の福祉の範囲内で認められるということ。
このように経済活動の自由には、公共の福祉という制限が精神の自由よりも幅広く行われている。これは無制限に経済活動の自由を企業・個人に認めると、利潤追求に走りすぎた企業・個人によって、僕らの人権が侵害される可能性があるからだ。そのようなことが無いように、社会政策的な観点から積極的に経済活動の自由は制限される。

「政治・経済の点数が面白いほどとれる本」執行康弘 KADOKAWA







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