れいわ新撰組とは

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れいわ新撰組が登場した社会的背景

小泉政権辺りから、今の政権は新自由主義的だ、今の経済は新自由主義的だ、という表現がよく言われてきた。新自由主義とはまあ純粋な自由主義のことなんだろうけど、ひたすら競争を徹底させて強いものがさらに強くなる経済でよしとするような考え方であり、その現代版ということで「新」が付いているのだろう。実際に、強い経済主体がグングン伸びていける社会では、国のGDPも伸びやすいのだ。だから経済学的に見て自由経済は何も問題ではない。競争で勝ち残った企業は盛んに株の配当を出し、資本家も儲かる。だから新自由主義の社会は金融が強い社会でもある。様々なものが金融商品に置き換えられ、「金融化」と表現されることもある。嫌味な言い方をすれば金持ちに都合のいい仕組みだ。

しかし資本主義というのはそもそもそういうものなのだ。19世紀末ごろの資本主義は資本家の儲け欲望丸出しのものであり、労働者は酷使されていた。これを問題視したマルクスが「資本論」を書いたのだ。20世紀になって特に戦後、共産主義への対抗の意味もあって、先進諸国は福祉国家の道を歩んだ。つまり資本主義と手厚い福祉政策をハイブリッドさせ、競争にうまく乗れない社会的弱者も包含できるような社会を目指したのだ。ただ福祉政策を充実させるには当然、国家財政にある程度余裕があって財政が上手く回ることが必要だし、そもそも資本主義の部分が上手く回ることが必要だ。でないと財政も安定させられない。70年代終盤辺りからの世界で、これが上手く回ってないとみなされ始めた。きっかけはスタグフレーションだった。そこでケインズ政策の代わりにマネタリズム理論が世界的に脚光を浴びるようになり、財政緊縮と金融に軸足を置いた新自由主義が先進諸国で幅を利かせるようになってきたのだ。だから日本では小泉政権辺りから話題になったが、世界的には新自由主義の始まりはサッチャー、レーガンあたりの時代だと言われている(レーガンの経済政策は事実上はケインズ政策だったという指摘もある)。

しかしこれは、ある意味、マルクスが嘆いた「資本主義むき出しの労働者が酷使される世の中」へ逆戻りしたことを意味する。当然、政府の財政緊縮、企業の利益至上主義などによって、酷使され過ぎる労働者や一般生活もままならない国民がボロボロ出てきてしまうことになる。19世紀末であれば、マルクスが共産主義のアイデアでこの悲惨な状況に対抗しようとした。あるいはフェビアン社会主義などもあった。今なら、こういった状況を問題視する人々は、どういう政策理論を作ればいいのだろう?あるいはどういう行動をすればいいのだろう?また共産主義の理論を利用すればいいのだろうか?

共産主義は冷戦の敗者と見なされ、今一つ人々への訴求力が足りてないように思える。日本共産党も、申し訳ないけど、有権者の多くの心をガッチリつかめているとは言い難いだろう。しかしそれは世界の共産主義者も同じだ(ただしベストセラー「人新生の資本論」に書かれているように、大元のマルクス理論自体は、現代にも応用できるという見直しも進んでいるらしい)。

れいわ新撰組のスタンス

共産主義に並ぶほどのイデオロギー、理論は未だ生まれていないかもしれないけど、この過酷な状況に体ごと、丸ごとぶつかって行こう、というスタンスで政治に取り組んでいるのが、れいわ新撰組の山本太郎代表だ。周囲の人々は一様に、山本太郎の行動力はすごいと評している。原発被災地に何度も足を運び、被災者の話を丹念に聞いているらしい。地震の現場にもすぐに足を運び、ツテを頼って現場に重機を運び込む手配をする、ということもやっているようだ。それに年越し派遣村で話題になった年末年始の炊き出し活動、これにもよく参加して、炊き出しの手伝いをしているらしい。障がい者の話も直接会ってよく聞く。しかし演説中にも聴衆の意見・質問をよく聞きすぎてしまうので、「今日質問されたことを今度はちゃんと答えられるように調べておいて」みたいなリクエストが次々に降ってくるので、事務所のスタッフは大変なようだ(汗)。

れいわ新撰組の政党ポジション

これだけ熱心に社会的弱者を救うための活動をしている議員さん、政党を、外野の目線から「分類する」というのはいかにも不遜な気がするが・・・

あえて政党カテゴリーの中の政策位置で見てみると、共産党にはすごく近いはずだ。実際に山本太郎も、「共産党の議員さんには助けられたことが何度もあります」という風な証言をしている。今の共産党の人たちはまだ党の歴史等に愛着があるのだろうが、いずれは共産党の議員さんたちは共産主義の看板を下ろして、れいわ新撰組のようなイキのいい弱者救済型の政党に合流した方がいいんじゃないか?と個人的には思うこともある。それに、実は与党の一部になっている公明党とも近いはずなのだ。その象徴的なのが、カジノ法案採決の時に「カジノより学校にエアコンを!」という垂れ幕を掲げて国会の壇上に登ったことだ。「学校にエアコン」は一時期公明党の目玉政策にもなっていた。こういうとき、公明党は与党を離脱して、野党でリベラルの大きな塊を作る手助けをすればいいのになぁ・・・と、個人的には思うことがある。それに、立憲民主党の一部の議員ともウマが合う所はきっとあるだろう。野党は、自民党に対抗できるリベラルの大きな塊を作れる可能性がまだまだある、と思う。

面白いのは、日本維新の会との対比だ。様々な点で、れいわ新撰組の政策スタンスは日本維新の会と真逆なのである。それがよく分かるのが、山本太郎の「僕が目指す社会は、究極は、頑張らなくても生きていける世の中です。もう『これトチったら俺の人生終わりだな』みたいな世の中はやめにしたいんですよね。そういう状態が続く人生は地獄ですよね。『まあいいか』みたいな余裕が欲しい」という発言だ。「人が生産性で計られない社会にしたい」ということも、山本太郎がどこかで言っていたかもしれないし、れいわ新撰組の議員が言っていた気がする。

日本維新の会も、「人を生産性で計る」とまでは言っていないけど、彼らはとにかく効率のいい社会を作りたいのだ。経済の生産性を高めたがっていることは間違いない。

これだけ熱いれいわ新撰組と反対だからと言って、日本維新の会が「悪」というわけでもない。むしろ日本維新の会は大変優れた政党である、と私は思っている。つまり社会への「視点」が違うだけなのだ。要は当たり前かもしれないが、それだけ社会問題は多面的であり、一つの角度の政策だけで国の問題の全面解決など図れないということだ。だからこそ多様な政党が必要なのである…が野党乱立してもいいのかどうかは、国民が判断することだとしか言えないだろう。

れいわ新撰組の経済政策

「社会的弱者の救済をする」「人が生産性で計られない余裕を作る」というのはザックリ言えば福祉政策をしっかりするということだろう(福祉政策のきめ細かさが、立憲民主党や公明党と違う所なのだと思う)。当然ながら、福祉政策をしっかりするとなると、「その財源はどうするのか?」という問題が出てくる。れいわ新撰組が外野の評論家から一番激しく攻撃を受けているのも、おそらくこの部分だ。「財源のめども立っていないのに、好き勝手言ってるだけじゃないの?」というわけだ。上記で「共産主義でないなら他に何がある?」という風な書き方をしたが、今のれいわ新撰組はおおむね、MMTに依拠して経済政策を作っているようだ。とにかく国債を刷って財政出動をもっと増やす。消費税を減税して、さらに給付金を配るというものだ。際限なく財政出動を拡張できないことはもちろん理解されていて、激しいインフレにならない限りにおいて、もっと財政出動すべきだという主張である。

「まるごと山本太郎 れいわ新選組」週刊金曜日 臨時増刊号

「僕にもできた! 国会議員」雨宮処凛

「維新ぎらい」大石あきこ 講談社






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